●自分の手の中にはない。● 例大祭が行われている神社は、夜になってもごった返していた。 男は人波の中に気配を消しつつ、拝殿の前で微動だにせず祈りを捧げ続ける青年を、じっ と見つめていた。 青年の眉間に深く刻まれたしわが意味するものは何だろう。部下を裏切り、自分一人だけ がここにいるという現実が、未だに受け止めきれずにいるのだろうか。 長い長い祈りの後、彼はようやく息を吐き、身を翻し、男がいる場所に向かって歩いてき た。 男ははっと身を震わせる。 彼の目に、己は映っていないはずだ。…はずだが、…いや、もしかして。 「…那岐」 しかし彼は、別の名を呼びながら、男のいる場所の少し手前で足を止めた。 呼びかけに応えて手をあげる横顔は、少しつまらなそうではあったけれども、青年と目が 合うとほころんだ。 「忍人遅いよ。…何をそんなにたくさんお願いしたのさ」 「…すまない。…ここにくるとどうしても、…部下たち一人一人の顔が浮かんでしまって」 「ここは橿原宮じゃないんだよ」 「わかっている。…わかっては、いるし、…祈ったところで俺が部下たちを裏切った事実 が消えるわけではないが」 「……」 那岐は優しい目でそっと忍人の背を撫でた。 「早く行こう。…夜の外出はだめって言われて留守番してる千尋に、何か買っていこうよ。 ……ベビーカステラは?」 「千尋は甘い物が好きだからな。…きっと喜ぶだろう」 語り合いながら、二人は男…柊の前を通り過ぎていく。 彼らの手の中でちゃりと鳴るのは、同じ形をした鍵だ。 …自分の手の中にはないその形を、柊は一人うなだれて、目に焼き付けた。