●プールの誘惑●


夏の朝は早い。
朝練に行こうと武道場へ向かっていた忍人は、プールの横を通りかかったとき、ふと違和
感を感じて足を止めた。
一瞬、その違和感が何かわからなかったが、観察することしばし、はたと気づく。
プールの鍵が開いている。どうやら昨日誰かが閉め忘れたものらしい。
「……」
金網の向こうで、水が揺れる音がする。風が吹いて、かすかな消毒臭を運んでくる。…そ
の音と匂いは、忍人にある記憶を思い起こさせた。
部の合宿で学校に泊まり込んだときのこと。雑魚寝の武道場は、夜中、死にそうなほどに
暑かった。暑くて暑くて眠れなくて、誰かがプールに忍び込もうと提案した。
…誰も止めなかった。皆で金網をよじ登り、こっそりプールに飛び込んだ。笑って、遊ん
で、…皆すっかり塩素くさくなって。
「……」
楽しかった夜と冷たい水の感触を、体が覚えている。よみがえった記憶は忍人の心をくす
ぐる。今日は自由参加の練習だし、朝練から参加する者は元々少ない。プールの鍵は開い
ている。
少しだけ。ほんの少しだけ。
「……」
忍人が、プールに向かって歩き出そうとした、そのときだった。
「葦原」
「…!」
呼びかけたのは、親友の羽田だ。朗らかに笑って、少し首をかしげている。
「何してるんだ」
忍人は目を伏せ、…そっと笑った。
「自分がいかに欲望に弱いかについて考えていた」
「……はあ?」
羽田は怪訝な顔だ。
「羽田に声をかけてもらって良かった。…俺は本当に意志が弱い。羽田が声をかけてくれ
なければ、誘惑に負けるところだった」
「……。…お前、その顔でそんなこと言っても、まったく説得力ないから」
あきれ顔で言う羽田に、忍人は笑う。
「…朝練に行こうか。……今日も暑くなりそうだな」
「まったくだ。…朝練が終わったらプールに忍び込むか」
羽田の提案に忍人は声を上げて笑った。
「なんだよ、そんなに笑うことないだろう?」
「いや、すまない、つい」
謝りながら、それでもまだ、忍人はくすくす笑っている。その笑いに呼応するように、蝉
が元気よく鳴き声を重ね始めた。