●ビロード●


−…時々無性にここから逃げ出したくなることがある。

那岐はぼんやりとそう考える。
千尋が大好きで、守らなければならないと思っているし、風早や忍人のことも気に入って
いる。かりそめとはいえ、机を並べるクラスメートの中にも取り立ててうっとうしく思う
ほどの人間などいないのだが。
「……」
今までずっと狭い世界の中にいた。そこから出て行く選択肢など那岐にはなかった。
…選択肢がないのはこの世界でも同じだが、豊葦原と違って、ここには手段がある。遠く
へ、遠くへと、逃げ出す方法だけはあるのだ。
胸が騒いで騒いで、小さな傷でもついたらそこから心が裂けて何かがあふれ出しそうな、
…そんな錯覚に襲われると、那岐は必ず駅へ行く。
入場券で駅に入って、ぼんやりと、やってきては行ってしまう電車をただ眺めるのだ。
ぼんやりと、ただぼんやりと、……どれだけそうして見送っただろう。
…気付けば、あたりがすっかり夜になっていて、那岐の目の前を通り過ぎるのが学生では
なく通勤帰りのサラリーマンやOLばかりになった頃、…もう既に、見ているようで何も
見ていない那岐の前で、黒っぽい人影がふと足を止める。
「…わざわざ迎えに、というわけじゃなさそうだ」
本の入ったディパックを肩に、薄く笑うのは忍人だ。…そうして彼は、那岐に向かって右
手をさしのべる。
「…帰ろう、那岐」
その一言が、那岐を我に返らせる。
「……っ」
「…帰ろう」
繰り返される静かな声に、こみ上げてくるものをぐっとこらえて、
「…うん」
那岐は立ち上がる。
…手段はある。逃げ出したいと思うこともある。…けれど、那岐のホームはやはりあの家
だから。…逃げない。
「…帰る」
おずおずと告げると、忍人はビロードのように笑った。