●オオカミの瞳●


中学生にもなって遠足が動物園で、しかも感想を書けとはどういうことだと思いつつ、那
岐が仕方なく手帳に二言三言メモしていると、向こうの方で千尋が檻の向こうの何かと真
剣に見つめ合っているのが見えた。
「…何してるの、千尋」
近づいて声をかける。
「…その声、那岐?」
振り返りもしないで千尋はつぶやく。
「そうだよ。…何、いったい」
千尋が見ているのはシベリアオオカミの檻だ。檻の向こうでは、ゆったりと体を横たえた
オオカミが一頭、眼光鋭くこちらを見ている。
「め、目が合ったらそらせなくなっちゃって」
「……はあ?」
那岐は思わず声を裏返した。
「何だか、ちょっと見てたら見つめ返されて、全然目をそらしてくれないの、あのオオカ
ミ。…ど、どうしたらいい?」
「…檻の前から離れればいいだろ」
「そんなことしたら飛びかかってきそうだよ?」
「檻の向こうにいるオオカミが、どうやってこっち側に飛びかかってくるんだよ!」
那岐が思わずつっこんだ、その時、二人の騒がしさに気がそげたのか、オオカミの方が千
尋から目をそらしてそっぽを向いたので、千尋は大きなため息をついて肩の力を抜いた。
「…全く。…いちいち檻の向こうの動物と目を合わせて動けなくなってたんじゃ、何も見
て回れないだろ」
「…オオカミだけだよう…」
千尋はぼそぼそと抗弁した。
「…お兄ちゃんに似てるなと思ったら、何だか目が離せなくなっちゃったんだもん」
「…て、忍人?」
こくん、と千尋はうなずく。那岐はオオカミを振り返った。今はあらぬ方を見ているその
眼差しの鋭さは、なるほど、確かに忍人っぽいと言えなくもない。
「…目をそらしたら怒られそうな気もしたよ」
「オオカミは千尋を怒ったりしないよ」
…忍人本人だって、千尋をその程度のことでは怒らないだろう。忍人は無器用でわかりに
くいけれど全身全霊で千尋を慈しんでいる。
…そう思ったら、ふと気付いた。
「…目をそらしたら怒られそうとか飛びかかられそうって、全部違うんじゃないの、千尋」
気付いたことを言ってみる。千尋はきょとんとした顔になった。
「…?」
「本当は単に、見とれてただけなんじゃないの、あのオオカミに」
あるいは、オオカミそのものではなく、オオカミに忍人を重ねて想像の中の忍人に見とれ
ていたのではないかと、…その思いの後半はあえて口にしない。
千尋はしばらく考えて、そうかも、とぽつりと言った。
騒がしい昼下がりの動物園で、二人の周囲だけが何故か静かだった。