●神様のいるところ●


屋根の上の十字架を見上げていた蓬生が、ふと教会の扉に歩み寄った。そのままゆっくり
と扉に手をかけて押し開くので思わず大地は声をかける。
「…土岐?」
「…入らんよ。さすがに深夜やな、真っ暗で、中、何も見えへん。祈りに来る人は灯りを
持ってくるか、電気の場所知ってんやろな」
言いつつ蓬生はじっと教会の中を見つめている。
「…子供の頃、神様とかお祈りとか、大嫌いやった」
ふとつぶやく声が、相づちを求めているのかどうか大地にはわからなかった。だからあえ
て何も口を挟まない。
「信じたって何もしてくれへん。体は辛いまんまや。…かといって、最先端医療を信じて
たわけやない。そっちも、そんなもんなんぼのもんやくらいに思とった」
「……」
大地は目を伏せた。医者を目指す立場として蓬生の言葉に傷ついたわけではない。ただ、
狭い病室に閉じこめられて全てを呪っていたのだろう小さな蓬生を思い浮かべると、それ
はひどく痛い言葉だった。
「…何に対しても斜に構えて、何も信じてへんかった。……あの頃の俺に信じられたもん
は、自分自身と千秋だけや。嘘つかへんのは、自分の体以外では千秋だけやった」
…ぽつりぽつり語る蓬生の言葉に淡い灯火のような色がついたのは、東金の名前が出たと
きだった。斜め後ろにいる自分には見えないが、蓬生はきっと優しい目をしているだろう。
自分には決して向けられない瞳を、ここにはいない彼に向けているのだろう。
…そう思うとたまらなくて、大地はそっと蓬生の傍らに立ち、彼が開き続ける扉をそっと
閉じさせた。
蓬生がゆるりと大地を見る。
「…それは、今もかい?」
自虐的だと思いながらも、大地は聞いてみた。
「……」
蓬生は何か探るような目をして大地を見上げる。
「…信じられるのは、東金だけ?」
蓬生の口角がゆっくりと上がった。
「…そうや、言うたら、君は傷つくん?」
「………いや。……そうかもしれないなと思うだけだ」
大地の返答を聞いて、蓬生の笑みは深くなった。
「…普段、飴ちゃんより甘っちょろい考え方しとうくせに、こんな時だけ妙に聞き分けが
ええんやな。…もう少し拗ねたりいじけたりしたらかわいげもあんのに」
「じゃあ聞くけど、俺のこと、信じてるかい?」
おや、と蓬生は一瞬唇をすぼませ、またにやにやと笑う。
「…。…榊くんは、俺の投げた球、俺の思たとこに返してくれたことがないからなあ。い
っつも裏切られてばっかりや」
「…。…俺だって、ど真ん中のストレートを投げてもらったことは一度もないよ。いつだ
って変化球のすっぽ抜けばっかりで」
「…確かに。お互い様やな」
言い返す大地の言葉を聞いてなぜかひどくうれしそうに笑ってから、そろそろ行こか、と
蓬生はくるりと教会に背を向けた。先に立って教会の門を抜けようとして、ふと敷地の内
で立ち止まり、肩越しに大地を振り返る。
「…せやけど、君を信じてへんわけやない。俺がどんなとこに投げた球でも、君は絶対拾
って返してくる。…それだけは、信じてる」
大地は一瞬息を鋭く吸ってから、はは、と小さく笑った。
「今日は珍しく俺に優しいな。何か悪いものでも食べた?」
「別に。…信じてへん神様やけど、ここは一応神様のおるところやから、正直に言うただ
けや」
「…土岐」
「置いてくで」
すたすたと歩き出す背中を大地は追った。…蓬生が素直になってくれたとき、自分も変な
憎まれ口などきかず、素直にありがとうと言えば良かったと、少しだけ悔やみながら。