●蜜柑灯●


入ったことのないカフェにふらふらと吸い寄せられるように入ってしまったのは、雪と、
その店のまるで蜜柑のような色をした灯りのせいだと思う。
大地は、一杯のカフェラテを前において、ぼんやりと窓の向こうを見つめていた。深夜の
カフェには他にも雪を避けて入ってきたとおぼしき客が何人かいて、なおも激しくなるば
かりで止む気配を見せない雪を恨めしそうに見つめている。
ため息一つ。…大地はカップに目を落として、スプーンで無為にぐるぐるとかき回した。
今頃律は何をしているだろう、と、ぼんやり思う。予想はしていたことだが、大学に入っ
てからというもの、本当に会えなくなってしまった。最後に会ったのは大地の誕生日…い
や、年明けに実家から帰ってきた律を初詣に誘った日か。…もう二週間以上も過ぎてしま
った。
時計を見ると、もう11時を回っている。きっと今頃は大学の寮でベッドに入っているだ
ろう。…それともまだ起きているだろうか。起きているなら譜読みをしているか、音楽関
係の本でも読んでいるか。
そのとき、カフェの自動ドアが開いて、また一人雪から逃げてきた客が入ってきた。大地
はそちらへ顔を向けなかったが、彼は何故か迷いなく大地の側に近づいてきて、前の椅子
に腰を下ろす。
気配に顔を上げ、大地ははっと目を見はった。
「……律!?」
律は無言で軽く笑み、しるしのようにマフラーを椅子に置いてからカウンターへ向かった。
ほどなくカップを手に戻ってくる彼を見て、大地はもう一度、信じられなくてその名を呼
んだ。
「…律。…どうして」
「大学の同級生のミニライブを見てきた帰りだ。…急な話だったし、クラシックでもなか
ったから誘わなかった。…すまない」
「……いや」
謝ることじゃないが、…それにしても。
「……すごい、偶然だな」
まだ驚きが消えない顔でつぶやくと、律は少し照れたように目を細めて顔を伏せた。
「…別に偶然じゃない」
「…え?」
「ここを通りかかったのは偶然だが、この店に入ったのは偶然じゃない。…通りがかりに
この店の灯りが目に入って、なんだか蜜柑みたいな暖かい色だなと思ったら、その灯りの
下で大地が所在なさそうにしていた」
じわり、と、…大地の頬もほころんだ。
「…傘がないのか」
コーヒーを一口飲んで、いつもの冷静な顔になった律は、静かに問うた。大地は首をすく
める。
「まあね」
「らしくないな。いつも用意がいいのに」
「うっかりしてたんだ」
「…なら」
言い淀むように、もう一口コーヒーを飲んで。
「…小さい傘だが、…一緒に入っていくか?」
じわり、大地も目を細める。ぐい、と、すっかり冷めてしまったカフェラテを飲み干した。
「大きくて邪魔だけど、…いれてくれるかい?」
「大きいのは確かだが、邪魔ではない」
笑い合って、立ち上がって。
蜜柑の灯りに送られて、二人はカフェを後にした。どんな音も吸い込まれそうな夜だから、
積もる話はもちろん、睦言をかわすのにも遠慮はいらない。
思う存分与えられる優しい睦言に、控えめに甘える囁きに、心地よく溺れて二人歩く夜。