●如月吉日●


バレンタインデー前日の日曜日、
「ずっと受験勉強じゃ息が詰まるだろう。気分転換に水族館に行かないか」
律に誘われて、正直、全く期待しなかったと言えば嘘になる。
とはいえ、相手は律だ。1年2年のバレンタインで彼がいろいろやらかした逸話を一番よ
く知っているのは大地だし、彼がバレンタインのチョコを買う姿など想像もつかない。…
やっぱりないよな、と自分でその妄想を否定したというのに。
「…大地。…これを」
受験勉強中の大地を気遣ってのことだろう。大好きな熱帯魚の水槽もいつもよりは早めに
通り過ぎて、昼の光まぶしい出口に来たところで、律はかばんからきれいにラッピングさ
れた赤い包みを取りだした。
「…っ」
一瞬息を呑んで。
「…これ…?」
と確認したら、
「バレンタインだから」
と、そこまでは良かったのだが。
「小日向から」
……と、きた。
「………」
…なんというか、一旦雲の上まで持ち上げて、そこから改めて奈落の底に突き落とされた
かのようながっくり感だ…。
手ひどく裏切られる、とは、こういうことを言うのだろうか。
「…ひなちゃんが…」
つぶやく声に、元気が出ない。気付いていないのか、律はいつものトーンだ。
「三年生は自由登校だから、明日のバレンタインデーには大地をつかまえられない気がす
る、と。…今日俺が会うと言ったら、大急ぎで持ってきた」
「…そうか」
大地の反応をどう見たのか、律はやっぱり、と嘆息した。
「…やっぱりって、何が」
「チョコレートが嫌いなんだろう。小日向にも言ったんだ、大地はチョコレートが嫌いで、
毎年バレンタインでも受け取らないって。…だが、これはダークチョコだし、それなら大
丈夫なはずだと押し切られてしまった。……すまない」
「いや、いいよ。…ひなちゃんの気持ちはうれしいし、実際ダークチョコなら食べられる
んだ。この夏に学んだ」
「…そうなのか」
律は少し目を丸くした。
「…なんだ。…それなら俺も、用意すれば良かった」
・・・・・・・。
「…へ」
間抜けた声が出た。
律はふいとそっぽを向く。
「だから。……そういう日なんだろう、バレンタインというのは」
「……律」
「チョコレートは嫌いだろうから、代わりに何かと思ったが何も思いつかなくて、…せめ
て気分転換をと思ったんだ」
……それが、この水族館だったのか。
大地は笑い出したくなった。笑い出したくて、…けれどそれは素直な律を傷つけるような
気がして、こらえる。…代わりに、コートのポケットから、用意してあったダークブラウ
ンの小箱を取りだして。
「……じゃあ、…これは、音楽室に持って行かずに、自分で食べてくれるかい?」
律は、毎年贈られるチョコレートを、オケ部の練習後のおやつに提供していた。大地が、
勝手にロッカーに入れられていて断れなかったものをオケ部に持ってきたのを見て、それ
に倣ったのだろうが、…今年のこのチョコだけは、ちがう扱いを受けると思っていいのだ
ろうか。
律はちらりと小箱を見て、また顔をふいと背けて、…けれどそっと、白い指でその箱をつ
まんで受け取った。
「…当たり前だ」
蚊の泣くような声が愛しくて。抱きしめたいのを必死で我慢する。
冷たい風にも花の香りがほんのりと添う、如月吉日この佳き日。