●ラッシュアワー●


「聴きたいコンサートがあるんだが、東京には土地勘がなくてホールの場所がよくわから
ないんだ。…もし大地さえよかったら、一緒に聴きにいってくれないか」
ある日律が、珍しく少しおずおずとそう請うてきた。
無論、大地に否やはない。
ならば、というわけで二人で乗り込んだ東京方面行きの電車はひどく混んでいた。
まだ少し早いし、本当に混雑するのは東京からの下りにあたる逆方向だろうと思っていた
のだが甘かった。既に夜の通勤通学ラッシュの時間帯にかかってしまっていた車内は、横
浜市内から郊外に帰る通勤客や学生で立錐の余地もないほどだった。いずれ乗換駅が来る
たびに空いてくるはずと信じて乗り込み、運良く並んでドア側の位置をキープできたのだ
が、それもつかの間、次の駅でまた押し込まれてきた乗客に押される。人波で流されてい
きそうになった律を見て、大地はとっさにその手をつかんだ。
「…」
律が少し驚いた目で大地を見た。困惑されているのだろうか。確かに、男同士で手をつな
ぐなんて、気持ち悪いと思われて当たり前だ。…だが、手を離してしまうと見失ってしま
いそうで、怖い。
「ごめん。…はぐれると困るから、人が減るまでの間だけ」
律は、うなずく余地すらないのか、大地の言葉にゆっくりとまばたきを一つして唇で笑っ
てみせることで了承の意を示してくれた。
ほっとすると同時に、じわりとかすかに胸が熱くなって、大地は慌てた。
ごまかすために、二度目の乗換駅を確認しようと、無理をして胸ポケットから手帳を取り
出す。まかせろと案内役を買って出たものの、大地も一年前に高校に入学してヴィオラを
弾き始めるまで、クラシックコンサートを東京まで聴きに行く機会はなかった。今日行く
場所も、実は初めて降りる駅だ。
必死になって予習していたら、いつのまにか指の力が抜けていたらしい。するり、と手が
離れかけ、慌てた様子で律の指が、ぎゅ、と大地の指を握りしめた。
「…っ」
大地がはたと律を見ると、目が合ったとたん律はさっと顔をそらした。恥じるようにひそ
められた眉に、どきどきする。
「…大丈夫だよ」
とっさに大地は言った。
「ごめん。…大丈夫」
何がごめんで何が大丈夫なのだか、自分でもよくわからない。
けれど、今度は絶対に離れないようにと、指と指を絡めて握り返すと、律も逆らわずに指
を絡め返してきた。
人の壁に身をゆだねながら、大地はこの電車の混雑がずっと続けばいいと思い始めていた。
……いつまでもこうして、律と手をつないでいられるように。