●嫉妬する・猫●


まだ春浅い早朝の海辺に、他に人影はない。無言で、さくさくと砂を踏んで歩いていると、
大地がふと、「あ」とつぶやいた。
「…何」
何気なく蓬生が水を向けると、彼は小さく首をすくめる。
「…横浜に戻ったら、律とコンサートを見に行く約束をしているんだけど、待ち合わせの
時間も場所も決めてなかったな、と思って」
後ろめたさなどかけらもない声で、大地はそう述懐した。瞳は蓬生ではなく海に向けられ
ていて、かすかに笑みすら浮かべている。…見つめる蓬生の瞳が、一瞬闇の中の猫のよう
に不思議な色の光をたたえたことにも全く気付かない。
「帰ったら早めに連絡取らないと、……っ!?」
大地の言葉を遮るように、蓬生がいきなり大地のコートの衿をぐいとつかんで引き寄せ、
噛み付くように口づけてきた。
人気がないとはいえ、開放された場所で、朝の光が明るく周囲を照らしている。動揺する
大地を翻弄するように、口づけは深くなった。絡んだ舌からもれるなまめかしい音に、大
地はたまらず目を閉じる。
しばらくして、長い口づけは突然打ち切られ、どん、と突き放されるように大地は解放さ
れた。
「…蓬生」
大地の整わない息に、蓬生は目を細めて冷ややかに笑う。
「……何や?」
「何、って聞きたいのはこっちだよ。…いきなりどうしたんだ」
「…気ぃついてへんのか」
どこか憐れむように蓬生はつぶやく。
「…なあ、大地。…まさか、嫉妬は自分の専売特許や、とでも思てるん、ちゃうやんな?」
「……っ!」
はっと息を呑んだ大地を下からすくい上げるように見て、…蓬生は一瞬だけ、本心をのぞ
かせるような寂しい目をした。
「大地が千秋にやきもちやくみたいに、俺も如月くんに嫉妬すんねんで。……なあ、何で
俺と二人きりでおるときに、如月くんとの約束思い出すん。…信じられへんわ」
「……っ、……」
大地は何かを言おうとしたようだったが、何故かそれを呑み込んだ。…それを見て、ふ、
と蓬生は笑う。
「…ええよ。…俺の前で如月くんの名前出してもちょっとも狼狽せんくらい、キヨラカな
関係や、いうことはようわかってる。……せやから、今回は大目にみとくわ。…けど、次
はないで」
「ああ、わかってる。…以後気をつける」
硬い声でつぶやいた大地に、おや、と蓬生は眉を上げた。
「…ごめん、て、…言わんのん?」
「……」
大地は一瞬言葉を探して考え込む。
「……さっきも言おうと思った。…でも、ごめん、と謝る方が、蓬生を傷つけるような気
がしたんだ。…俺の考え過ぎかな」
「……」
今度考え込むのは蓬生だった。
「……いや。…当たっとう、かな。確かに、謝られたら、なんやこっちが辛いわ。…やけ
ど、このまま流されるんも業腹やな」
「…何をすればいい?」
ぶっちゃけ大地は、今日一日何でも言うこと聞いてもらおか、くらいは覚悟したのだが。
「…キスして。…大地から」
蓬生の願いは予想に反してささやかで、…ひどく真摯だった。
望み通りに口づけて、抱きしめる。…蓬生がかすかに震えているのは寒さからか、感情を
抑えているからなのか、…量れない自分を、大地は情けなく笑った。