●冗談● その日寮に入ると、コーヒーのいい匂いがした。 つられるようにふらふらとキッチンに入っていったら、コーヒーを入れていたのは土岐で、 …たぶん俺が物欲しそうな目をしていたんだろう、……キスしてくれたら、コーヒー一杯 分けたげるわ、と言った。 土岐はそれを冗談で言ったのだろうし、俺もそれを冗談と受け止めていたはずなのだが。 ……気付いたら、俺は土岐に近づいて、軽く、ではあったけれど、その唇に唇で触れてい た。 …どこかでガタンという音がして、ばたばたと逃げるように走っていく足音が聞こえた。 「…見られたで」 土岐が冷静に指摘する。 「みたいだな」 俺はぼんやりと答える。 「ええん」 「…別に。見たことを皆に言いふらしても、どうせ誰も信じないだろうし」 「…言えてるな」 土岐は首をすくめた。そしてカップにコーヒーを注いで差し出してくれる。 「そない飲みたかったん?」 「そうでもないんだ。…ただ、売り言葉に買い言葉というか」 「ここでその慣用句出すんはどうかと思うけどなあ…」 キスの後とは思えないしらけた顔で、二人並んでキッチンカウンターにもたれてコーヒー を飲む。真昼の日差しがキッチンの床に、綺麗な星のようなモザイクを描いていた。