●らしい、らしくない。●


昼からの実技の授業が自習になってしまった。慌てて練習室を押さえにいったが、もう空
きはない。やむなく律は屋上に向かう。
重い扉を押し開けると先客がいた。…しかもそれは、屋上がある音楽科の生徒ではなかっ
た。
「…大地」
屋上の扉に背を向けて手すりにもたれていた大地は、呼びかけに気付いて振り返った。
「…あれ、律。…奇遇だね」
「大地も自習なのか?」
問うと、彼は少し困った顔をして肩をすくめた。
「…いや。…俺は、さぼり」
「…」
律は思わず眼鏡のブリッジを押し上げた。
「…いいのか」
「よくないだろうね」
「らしくないな」
何気ない一言だった。だが、その言葉をもらしたとたん、一瞬で大地の雰囲気が変わった。
「らしい、らしくないって何だい、律」
ひやりとした声。いつになく荒れた気配。
「たとえば、…こんなことする俺は、らしい?…らしくない?」
言うが早いか、大地は律の腕を掴んだ。律がはっとするよりも早く、つかんだ腕を引かれ
て抱きすくめられる。
「……っ!」
眼鏡のフレームが大地の頬に当たって少しずれたが、腕ごと抱擁されていて直せない。
「…大地」
困惑しつつも、つとめて冷静に、律は大地の名を呼んだ。
……すると、先刻と同じように、大地の気配が劇的に変化した。まず我に返ってぎくりと
身体が強張り、ついで、うわっと突き飛ばすような勢いで、拘束めいた抱擁から律を解放
する。
律から数歩後ずさって、口に手を当てている大地は、動揺と狼狽と罪悪感とで言葉もない
様子だった。律が一歩近づくと二歩下がる。やがて、とん、と屋上の手すりに背中をぶつ
けた大地に、律はなだめるように静かに話しかけた。
「…俺が不用意なことを言った。…すまなかった」
「謝らないでくれ、律」
大地の声はかすれていた。
「律は何も悪くない。…俺、……俺は今、ちょっとどうかしてた」
「…何かあったんだろう。…大地が授業を放棄することに理由がないはずがない。…気付
かず、無神経なことを言ったのは俺だ」
律は努めて淡々と話したが、大地は激しく首を横に振った。
「駄目だ律、…俺を許しちゃ駄目だ。……俺、……俺は本当に、……今」
大地の言葉を遮るように、律はそっと左手で大地の肩を抱いた。そして、大地の左肩に自
らの額を預ける。
「大地が落ち着くまでこうしている。…落ち着いたら話を聞くから、謝らなくていい。…
俺は傷ついていない。傷ついたのは大地だ」
「……律」
だめだ、と、苦しそうなつぶやきがもれた気がしたが、律はもうそれを無視した。代わり
に右手も大地の背中に回し、しっかりと抱きしめる。
…やがてゆっくりと大地の体と心がほどけてくるまで、律はその手を決して離さなかった。
自分には決して荒れたところを見せなかった大地が初めて見せた衝動に、じわりと喜びが
満ちてくるのを感じながら。