●空を向いたリンゴ●


その夜キッチンのカウンターに並べられていたのは調味料の類ではなく、寮内のあちこち
からかき集められてきた絆創膏や消毒薬、軟膏といった救急用品の数々だった。
「ちょっと大げさだよ、律。皮をむき損ねて少し指先を切っただけだ」
困惑した顔でぼそぼそと言う大地を、律はきっと睨み付けた。
「楽器を扱う人間が、指先の怪我をおろそかにするものじゃない。コンディションの不調
は、明確に音に出るんだ」
「弦を押さえる左手ならともかく、右手の親指だよ」
「それでもだ」
もうこれ以上言うなと目で叱って、律は黙々とオキシフルで大地の指先を消毒し始めた。
小さな切り傷だが、オキシフルは少ししみた。思わず顔をしかめてしまう大地を見て、律
が眉を寄せる。
「…痛むか」
「しみただけだよ。…消毒なんだから、当たり前だ。気にしなくていいよ」
「……」
心なし、手つきが慎重になった。気遣いながらも律はてきぱきと軟膏を塗り、くるりと絆
創膏を巻いた。…軟膏が多すぎず少なすぎずちょうどの量で、慣れた手つきだったことは
大地を少し驚かせた。
「…できた」
「ありがとう。…意外と手際がいいんだな」
「意外か」
律は憮然とする。
「あ、いやその」
もごもごと大地は口ごもる。
日常生活は、基本無器用だと思ってた、なんて。…とても言えない。
「弟がいて、よくころんですりむいたりしていたんだ。…両親が留守がちだったから、俺
が手当てすることが多くて、慣れた」
「そうか。……ふうん。…決めた。じゃあこれから、怪我したらいつも律に手当てしても
らおう」
「その前に怪我をしないことを心がけてくれ」
律はさらに渋面を作ったが、それもそうだと大地が笑い出すとつられたように口元をほこ
ろばせた。
むきかけのりんごが、早く続きをお願いしますと言いたげに、キッチンの天井を見上げて
いた。