●朧春宵●


千秋と共に夕食を取ろうと夜の街へ繰り出す途中、目的地へ向かう歩道橋を渡っていると
きに、携帯が鳴った。
ちらっと見て、蓬生はすぐにポケットにつっこむ。傍らを歩いていた千秋が、肩越しにし
ながだれかかってその様子をのぞき込む。
「誰からのメールだ?」
「…いや、…何でもない」
愛想なく応じると、千秋はくくっと喉で笑った。
「榊からだろ」
「…何で」
「俺といるときに、蓬生が何でもないって言うのはだいたい榊だ」
ちがう、と言いたいが、このメールについては千秋の言うとおり大地からのものなので、
蓬生は首をすくめるしかなかった。
「何だって?」
「知らん。中身読んでへんし」
「読んでおけよ。急ぎのことかもしれないだろ」
「急ぎのことやったら電話してくるやろ」
蓬生はそう言い放ったが、それは嘘だった。大地は、自分から土岐に電話してくることは
ほとんどない。理由を聞いたことはないが、蓬生はほぼいつも千秋と行動を共にしている、
と、大地は思いこんでいる。……だからではないかとちらりと思ったことはある。
「じゃあ、他愛ない日常メールってとこか?」
「たぶん」
「愛されてるなあ」
千秋が妙にしみじみとつぶやいたので蓬生は少しぎょっとした。
「…何で」
「まめにメールを送るなんて、愛がなくちゃできないだろ」
「……。…そんなんとちがう」
周りが誤解しているほどには、自分たちの間には甘やかな感情は存在しない、と蓬生は思
っている。会うたび大地は蓬生に甘い言葉をくれるが、それが自分が愛されているからな
のかどうかはわからない。言うべき相手に言えなかった言葉を、蓬生に向かって吐き出し
ているだけかもしれないではないか。
自分にしたところで、彼に向かう心がどの程度本気なのか、未だに測りかねている。
時折、会いたいと無性に心がつのり、いてもたってもいられなくなることがあるけれど、
それはただ恋愛ごっこがしたいだけで、相手は誰でもいいのではないかと誰かに指摘され
たら、そうではないとはっきり否定しきる自信が蓬生にはない。
その証拠に、大地に会いたくて横浜に行くはずなのに、千秋に来いと言われれば、帰らな
ければと考える自分がいる。…そして、帰る自分を大地はいつも穏やかに冷静に見送るの
だ。…何でもないことのように平然と。
「……」
いつか見た、改札の向こうで立ちつくす静かな顔を思い出して、蓬生は不意にたまらなく
なった。
「…千秋、…悪い。…やっぱり、ちょっと」
蓬生が携帯をもう一度取り出すと、気にするなと言って千秋は笑った。
大地からのメールの内容は、春休みの予定についてのものだった。大学生になって、家庭
教師のバイトをいくつか掛け持ちしている大地は、この二月三月で受け持ちの生徒を何人
か無事合格させたらしい。成功報酬というわけでもないだろうが、少し臨時収入が入った
から、旅行に行かないかという誘いだった。
急いで電話するような内容ではなかった。傍らでは千秋も待っている。…けれどあえて蓬
生は、大地の番号を電話帳から選び出した。千秋は蓬生の様子を見て取って、少し離れた
歩道橋の手すりに身を預け、傍観の構えだ。
「…もしもし」
コール数回で、耳慣れた声が携帯から聞こえてきて、蓬生は思わず電話を握り直した。
「…榊くん」
「土岐?…送ったメールのことで何かまずいことでもあった?」
「いや」
電話では相手には見えないのに、思わず蓬生は首を横に振った。
「その日程、どこでも大丈夫やって、言うとこうと思って」
「………」
奇妙な間があった。
電話の向こうで大地が押し黙っている。…蓬生はふと、不安になった。
…なんだろう。…何かおかしなことを自分は言っただろうか。
…だが、ややあって、
「…メールでも良かったのに」
流れてきたのは、いつも通り穏やかな大地の声だ。
「でも助かる。予定が立てやすいよ」
「…ん」
奇妙にざわざわする心を、蓬生はなだめた。
「行き先の希望はある?」
「や、別に」
「じゃあ、俺の趣味でいくつか案を考えておくよ。またメールする。電話ありがとう。…
おやすみ、……は、まだちょっと時間的に早いな。…さよなら」
「……ん。ほなら、また」
あっさりと電話は切れた。心が落ち着かないまま、蓬生も電話をポケットにつっこむ。
「榊、何だって?」
千秋が再び、蓬生の首に腕を巻き付けてきた。
「…臨時収入入ったから、旅行にでもいかへんか、て」
「榊のおごりで?」
「はっきりとは言うてやれへんかったけど、…たぶん」
「なんだ」
千秋はくすくすと笑う。
「そんなん違う、とかなんとか言ったくせに。…やっぱり愛されてるんじゃないか」
おおらかな声で言いはなって、蓬生の背中をぱんと叩いて。…行こうぜ、と彼は歩き出し
た。…その背中を追いながら、蓬生は、何かざわりと不安のようなものが押し寄せてくる
恐怖と戦っていた。
いつもメールですませることを、今日に限って何故自分は電話で伝えようと思ったのだろ
う。あの大地の奇妙な間は何だったのだろう。…そして今、波のようにひたひたと寄せて
くる、この不安の正体は何だろう。
『愛されているじゃないか』
千秋の言葉が耳によみがえる。
愛されている。…愛している。
………でも、…本当に?

−…俺は本気で、大地のこと、愛してるやろか。

…ずきりと、胸が痛んだ。
大地に愛されていないかもしれない、と想像するよりも、大地を愛していない、とうそぶ
くことの方が、心に刺さって辛かった。
…そして気付く。
自分はやはり、大地を愛しているのだ。沈黙に戸惑い、距離に怯え、千秋が側にいるにも
関わらず、彼とのつながりを確かめたいと渇望してしまうほど。
「……愛してる」
こっそりと口に出してみて、蓬生はようやく安堵する。

…遠くても、痛くても、…もしも愛されていなかったとしても。…きっと、愛している。
素直に伝えはしないけれど、この思いが自分の真実なのだと蓬生はようやくに腑に落ちた。

生暖かい風の吹く春宵は、朧月夜。
同じ月を、遠く離れた空の下、彼も見ているだろうか。



蓬生からの電話の声は、どこかいつもと違っていた。
…ごく普通に応対しつつ、何が、何か、と考え込んで、…ふっと気付く。
………蓬生の傍らに、千秋がいる。

蓬生の声は穏やかで淡々としていて、特段、仲の良さを強調するような響きも、媚びるよ
うな色もない。…それでも、大地は奇妙な確信を持った。蓬生は、千秋に電話の声を聞か
せているのだと。
あてつけられているとは思わない。おそらくは、千秋が何か、蓬生を不安にさせるような
ことを言ったのだと思う。…そして、蓬生は大地に電話をかけてきた。…なにがしかの、
よりどころを求めて。

…よりどころとして信頼されていることはうれしく思う。いつでも、いくらでも頼ってく
れればいい、…そう思う。
……けれど、それは愛だろうか?…自分が蓬生に焦がれる思いと、同じものだろうか?

きれた電話を見つめながら、大地はまたため息を一つ呑み込んだ。

つくことのないため息が、胸に一つ一つたまっていく。額に手の甲をあて、机に肘をつき、
大地はしばらくうつむいていた。目頭から眉間が奇妙に熱く重いことが、ひどくうっとう
しい。

生暖かい風の吹く春宵は、朧月夜。
けれど、机に向かってうつむいて、窓をカーテンで閉ざした大地に、月は見えない。