●満ち潮に寄せて●


「夜の海というのは恐ろしいほど暗いものだな」
「…これは、…アシュヴィン殿」
静かな声に、柊は振り返った。気配には気付いていたが、相手は自分に興味はないだろう
と思っていたのだ。
「常世の国はほとんどの地が海から遠い。…中つ国のようにそこここが海に面しているの
を見るのは、少し不思議な気もする」
「逆に申し上げれば、中つ国の民は、どこまでも続く大平原や、猛々しい岩ばかりの山を
目にすることはありません。常世の風景を見れば、きっと皆不思議に思いましょう」
「……」
なるほどな、とつぶやいて、アシュヴィンは口元だけで笑った。…そのまま去るかと思っ
たが、彼の足が留まったままなのを見て、柊は静かに問いかけた。
「…何か、私にお話でも?」
「…」
アシュヴィンは、ふと、間をおいた。…言い淀んだ、というよりは、少しもったいぶった
間だった。
「一度、お前に聞いてみたかった。…柊。…お前は何故、レヴァンタを罠にかけた?」
「…おかしなことを仰います」
柊は首をすくめた。
「私は、レヴァンタ様を罠にかけたことなど、ただの一度もございません。…私はただ、
レヴァンタ様にお仕えし、あの方の治世ぶりを見てもはやここまでと、あの方の許を去っ
ただけでございます。…レヴァンタ様を見限った、裏切った、と言われるならばともかく
も、罠にかけたと言われるのは納得がいきません」
言いながら、柊は流し目でアシュヴィンを見た。
「…罠にかけた、というなら、アシュヴィン殿の方なのでは?」
「…何、だと?」
ぴくりとアシュヴィンが肩をふるわせた。
「レヴァンタ殿に敵対するであろう我が君に策を授け、敗走するあの方の逃げ道に控えて
あの方を討つ。……これが、罠でなくて何だというのです」
「…国のためにならぬ者を排除しただけだ。どのみち逃げて国に戻れば皇の手で誅される
だけだっただろう」
「ならば皇陛下の手にお任せすれば良かったではありませんか。…なぜ、あなたが手を下
すのです」
「……」
アシュヴィンは押し黙った。柊もそれ以上は責めなかった。
「…レヴァンタ様のことで一つだけ、アシュヴィン殿下にお伝えしたいことがありました。
万が一にも機会があればと」
「……何だ」
「レヴァンタ殿はいつもあなたに嫉妬していた。年が近く、正妻の息子で出来が良く、皆
が認める後継者候補。妬んで、羨んで、それでも目をそらさずに見つめ続けていた」
柊の瞳がやや遠くを見た。
「私から見て、その姿はいっそ恋していると言ってもいいほどでした。あなたの話を繰り
返し繰り返し、…まるで恋人のことを語られているようですねと言うといつも火のように
怒られたものですが、私にはそう見えて仕方がなかった」
「……」
「…アシュヴィン殿。あなたもそれを知っていた。そしてあなたはそれがうっとうしかっ
た。だから一刻も早く彼を排除したかった」
「ちがう」
アシュヴィンは声を荒げるでもなく、ただ冷静に否定した。だが柊は明いている左目で糾
弾するように見つめる。
「あなたはうしろめたいのです。正義の名の下に私情をはさんだ自分が。だから、私を罠
にはめた同類に仕立てようとした。だが、レヴァンタ殿を罠にはめたのは、あなたと、あ
なたの腹心であるリブだ。彼を滅ぼしたのは我ら中つ国の民ではなく、結局あなた一人」
「……」
「それを心に抱いて、生きていかれるといい。どんな形であれ、己の存在があなたの中に
残ったと知れば、あの方はさぞ喜ばれるでしょうから」
「……」
黙りこくったまま何も言わなくなってしまったアシュヴィンに、柊は優雅に一礼した。
「…では、私はこれで。…先に船に戻ります。…夜の海辺は視界が悪いですし、じき、潮
が満ちてくる時間です。……足下をすくわれませんよう、どうぞ、お気をつけて」