●声が届くなら●


友情はさめないけれど、恋はさめる。……それが遠く離れているなら、なおのこと。

蓬生は、夜が明けたばかりの公園でぼんやりと携帯をもてあそんでいた。西の空にはまだ
うっすらと星が光る。時間は朝の五時半だ。大学の授業もない春休み、本当なら自分が起
き出すような時間ではない。
「……」
夜明け前に見た嫌な夢を思い出して、蓬生は少し首を振った。
…夢の中、自分は必死で電話をかけていた。つながってもつながっても、望む相手が電話
に出ない。同じ番号にかけ続けているはずなのに、つながるたび、違う誰かが電話に出る。
……何度かけても大地は出ない。大地の番号に電話しているはずなのに。
「……」
日頃雄弁な割に、大地は電話をかけることが苦手らしい。土岐から電話をすれば普通に応
対してくれるが、大地からの連絡は基本的にいつもメールだ。あんな夢を見たのはそのせ
いだろうか。
ぼんやりとベンチに座り込むと、どこからか、甘い香りがした。
「……?」
花の香りだ。知っている花のはずなのに、名前が出てこない。
「…何やったかなあ…」
働かない頭で考えていると、公園に人が入ってきた。犬を連れている。早朝に見慣れない
人間がいるからだろうか、飼い主はベンチに座っている蓬生を少し訝しげに見て、目を合
わさないように足早に通り過ぎていった。賢そうな日本犬はすっきりと頭を上げ、飼い主
の傍らにぴたりと寄り添って歩いていく。
…その犬の姿にふと、大地の愛犬を思い出した。
「……っ」
唐突に、いてもたってもいられなくなり、蓬生はぱたんと携帯電話のフリップを開いた。
こんな時間にと思ったが、共に過ごす明け方、いつも大地はこれくらいの時間には目を覚
ましていた。つられて起きた蓬生に一度、犬の散歩のせいで、習慣的にこの時間には目が
覚めるのだとすまなそうに言い訳してくれた。
夢の中、携帯電話の発信履歴は大地の番号で埋め尽くされていたが、現実の電話はほとん
どが千秋宛で、大地の番号を出すには電話帳を開かなければならなかった。
番号を選びながら、蓬生は小さく笑う。

−……そうか。…俺、めっちゃ長いこと、大地の声を聞いてないんや。…あんな夢見たん
は、そのせいか。

コール音が鳴り始める。二回、三回。…四回目でざわり背中に何かが走り、五回目で胸が
ひやりと冷たくなる。…が。
「……もしもし?」
六回目のコール音の途中で、大地のひどく驚いた声が聞こえてきたとたん。
「……っ」
ふわっ、と、下に下に沈み込みそうだった心の中の何かが浮き上がった。
「…土岐?もしもし」
「………。……おはよ」
少しかすれた声でつぶやくと、大地はほっとしたように電話の向こうでため息をついた。
「びっくりした。…こんな朝早くに、どうかした?」
「…いや、別に。……目がさめたから、この時間やったら榊くんはもう、わんこの散歩に
出とうかな、って思って」
「いい勘だな、当たりだよ。…土岐は?まだ布団の中?」
決めつけられて、蓬生は笑った。
「…いや?…俺も、散歩」
「……」
大地は一瞬間をおいて。
「…何か、あった?」
やや、何かを測るような声音で聞いた。
「別に」
短く答える。
「ただの気まぐれや。…なあ、俺のこと聞くより、榊くんのこと何かしゃべってや」
「…って言われても」
蓬生の唐突な依頼に、電話の向こうで大地は困惑気味だ。
「いつも通り散歩してるだけで、特に何もないよ。……今日は、こっちはちょっと曇って
る。そのせいで暖かくって、わりと散歩の人出が多いかな。…あと、沈丁花が満開だよ。
いい香りがしてる」
…沈丁花という言葉に、蓬生ははっとした。さっきからただよう甘い香り。…これは。
「…そうか、この香り、沈丁花や」
「…土岐?」
「いや、ごめん。…さっきからずっと、この香り何やろて思ててん。そうや、沈丁花や。
…榊くんのおかげですっきりしたわ」
じわじわと寄せてくる何かが胸を熱くする。
「……不思議やな。…こんなに離れてんのに、同じ春が来る」
同じ花が咲き、同じ香りに包まれている。遠く離れた場所で、彼も。
そのことがなぜかひどく幸せに思えて、蓬生がほころぶ口元を押さえたとき。
「……蓬生」
大地が不意に名を呼んだ。
「……っ」
鼓動が跳ね、じわり、熱が上がる。
…大地はいつも、蓬生を名字で呼ぶ。彼に名前で呼ばれるときはたいてい『そういうとき』
で。…だから熱が上がるのは、条件反射。
「…どないしたん。…急に改まった声出すから、びっくりしたやんか」
驚きをごまかそうと、わざと軽い声を出すと、
「…今日、予定あいてる?」
もっと驚くことを告げられた。
「…は?」
「今から会いに行きたいんだけど。…いいかな」
・・・・・・。
大地の言葉が耳から脳に届いたとたん、蓬生は慌てた。
「ちょ、…ま、…いきなり何や?…あんな、横浜と神戸やで。こんな離れてんのに今から
行くって、近所のコンビニに買い物行くみたいな言い方…」
「新幹線でも三時間はかからない。飛行機なら一時間だ。…こんなのは、離れているうち
に入らない」
…いや、入るやろ、と蓬生は心の中だけで真面目につっこんだ。
「会いに行く。今日、蓬生の時間が空いているなら、これ以上、『だって』とか、『でも』
とかいう言葉は聞かないから」
……っ。
胸が詰まって、声がかすれて。…でも。
「……大地」
蓬生も、大地の名を呼んだ。…いつもは『榊くん』と、他人行儀に呼ぶ口で。
「…時間は」
電話の向こうの声は、少し柔らかくなった。言葉は短いけれど、甘やかすようにどこか優
しい。
「…空いてる。空いてへんかっても、空ける。…いくらでも」
ふっと、大地は笑ったようだった。
「…すぐ家に帰って支度するよ。新横浜からまた電話する」
「……うん」
うなずきながら、蓬生は強く電話を耳に押し当てた。…大地の声も、息づかいの一つでさ
えも、聞き逃すまいと。
「……大地」
「…なに?」
耳に届く音が、愛おしくて愛おしくて。
「……何でもない」
何でもなくても、聞きたくて。
「…すぐ行くよ」
なだめるように囁く声に、ついほろりと、素直になる。
「…ん。待っとう」
「……うん」

友情はさめないけれど、恋はさめる。…遠く離れているなら、なおのこと。
…けれどどんなに遠くても、この声が君に届くなら、君の声がここに届くなら。
……この恋は、きっとさめない。