●気持ちの距離●


いつもの散歩は家から坂道を登っていくのだが、たまにはと坂を下って散歩に行くと、途
中、神社の境内から声をかけられた。
「おはようございます、榊先輩」
見れば、ハルが境内を掃いている。
「おはよう、モモ」
モモにもちゃんと声をかけて、頭を一つ撫でてやってから、ハルはまっすぐ、少し気遣わ
しげな目を向けてきた。
「今、坂を下りてきたんですか?」
「そうだけど」
「じゃあ、すれ違いませんでしたか?」
「誰と」
「土岐さんと」
「…」
いや、と大地は静かに首をすくめた。…ハルが、おや、という顔をする。
「誰とも会わなかったよ」
「そうですか。…じゃあ、よっぽど足が早かったか、どこかで脇道にそれたかな。…先刻、
神社の前を通っていくのを見かけたんです。声をかけたんですけど、イヤホンでもしてた
のか、聞こえなかったみたいで」
「寮に向かって?朝帰りかな。大胆だな」
「失礼ですよ、榊先輩。…コンビニの袋を下げてました。コーヒーでもきらしたんじゃな
いですか?」
「…ああ、なるほど」
しずかにつぶやいた大地を、
「……」
ハルは不思議な色の目で見た。
「…何だい、ハル。…何か言いたそうだな」
「…いえ」
「気にしないから、言っていいよ」
「……。…あのう。…土岐さんと仲良くなったんですか?」
「……は?」
「この間までの榊先輩なら、土岐さんが話題に上がっただけで、げ、とか、ぎゃあ、とか、
嫌そうな顔をしていたと思うんですが」
ストレートに言われて、さすがに大地が苦笑した。
「仲良くはなってないよ。…蜜月関係とはとても言えない。まあでも、距離感はね、つか
めたかな。お互いに楽しめるくらいの間隔はわかってきた。それ以上踏み込むと向こうは
爪が出るし、近づかれるとこっちも噛み付かざるを得ない、…それをしないですむちょう
どの距離っていうのがね、わかってきた。…俺だけじゃなくて、たぶん、お互いにね」
「……オトナになりましたね」
大地は一瞬絶句した。
「……ハルに言われると、かなり微妙な言葉だなあ……。……ま、いいか」
首をすくめて、リードを引く。
「行こう、モモ。…じゃあ、ハル、また後で、練習で会おう」
「はい」
ぴんと耳を立て、あごをあげて、どこか誇らしげに歩いていくモモとその飼い主は、気付
いていなかった。背後で小柄な神主見習いが、小さなため息をついたことに。
「噛み付かないですむ、気持ちの距離、か。…僕は、いつになったら測れるんだろう」
ため息はゆっくりと、朝の空気に溶けて消えた。