●海に降る雨● 「せっかくの卒業旅行なのに、この雨じゃ台無しだ」 エレベーターに乗り込みながら、大地がぼやいた。 「だが、それなりに観光は出来た。もう昼も過ぎたし、あとは部屋でのんびりしよう。昨 日はついたらもう夜で、窓からの眺めもろくに見られなかった」 なぐさめるように律が言葉をかける。 「窓からの眺めって、この雨じゃけぶって何も見えないよ」 「雨が見える」 律はすまして言って、少し笑った。 「俺は、海に降る雨を見るのはほとんど初めてなんだ。…山育ちだし、寮や学院からじゃ、 海らしい海は見えない。…新しい物を見れば、また新しい曲想が得られる気がするし、… …それに、大地がいる」 大地の胸が、一つ跳ねた。 「…律」 「音楽があって、大地がいれば、…俺はそれで十分だ」 天然の殺し文句に、大地は耳の後ろが熱くなった。…けれど、当の律は涼しい顔で、ちん、 と音を立てて開いたエレベーターからすいと外に出てしまう。 「……律といると、時々腰が抜けそうになるよ…」 律には聞こえないようにつぶやきながら、大地もよろよろとエレベーターを出た。 前をゆく律がハミングするのはブラームスのワルツだろうか。やわらかいメロディは、こ の静かでやまない雨にひどく似つかわしい気がした。