●終わりの合図● 久しぶりに一人で映画を見に行った。 千秋も誘ったのだが、 「そういう芸術的な映画は、俺はいい」 と断られたのだ。 そない芸術的って話でもないで、と一応反駁しつつ、千秋が暗に言いたいのは『そういう たるい映画は見ない』ということだとは察せられたので、それ以上は言わなかった。 深夜の映画館は、想像していたより観客がいた。映画が映画だし、時間帯も遅いので、正 直両手の指で足りるほどしか観客などいないだろうと思っていたのだが、どうしてどうし て、三十人ほどはいそうだ。仕事が遅くなっても開演に間に合う時間だったことが功を奏 したのかもしれない。 人と密着するのが嫌で、なるべく空いている場所を探したら、後ろの方の席になった。 椅子の背に書かれた番号とチケットの半券とを見比べながら座席の間の細い通路を上がっ ていくと、飲み物でも買いに行くらしく、蓬生とは逆に通路を降りてくる青年と、すれ違 いざま肩が触れあった。 「あ」 「あ、すいません」 「こちらこそ」 短い謝罪と会釈を交わして行き過ぎようとしたとき、あの、とぶつかった相手に呼び止め られた。 「これ、ちがいますか?」 彼がかがみ込んで拾い上げたのはキーホルダーのついた車の鍵だ。蓬生のものだった。 「…っ、…すいません、俺のです。ありがとう」 「いえ。大事なものをなくさないでよかったですね。…じゃあ」 ほっとした顔で穏やかに笑って、彼はまた通路を降りていった。 ぶつかったときは顔も見なかったから気付かなかったけれど、背格好や髪型が少し、大地 に似ている、と、ぼんやり蓬生は考えた。 「……」 らちもない、とため息をついて、拾ってもらった鍵を、今度はジーンズのポケットではな くシャツの胸ポケットに放り込んだ。 その弾みでキーホルダーの金色のイニシャルが目に入る。とたん、蓬生はめまいのような 既視感に襲われた。 −…あの日も自分は鍵を落とし、拾ってもらった。 黒々とした山並み、赤く赤く、毒々しいほどに赤い西の空。深い陰影をつけた大地の瞳。 …一旦うつむいて、また顔を上げる。静謐な笑みは、先刻通りすがりの誰かが見せたもの とは大きく異なっていた。 痛みに耐え、静かに何かを請うている熱を帯びた眼差し、何かを諦めて呑み込んでしまっ た薄い唇。 …あのときは気付かずに受け止め得なかった大地の感情が、今更ながら、鮮やかに蓬生の 中によみがえる。 ……否。 −…気付いてなかったわけやない。…俺はたぶん、見んとこうと思ったんや。 自分が抱く大地への思いを疑われていることへの苛立ち。…そして、その疑いを完全に払 拭も否定も出来ない焦りといたたまれなさ。……大地の表情に気付いてしまったら、そう いう負の感情で自分がぐちゃぐちゃになってしまいそうで、……敢えて、見ないふりをし た。 −…何でなんやろ。 心の中だけで蓬生はつぶやく。 大地が好きだし、大地に好かれていることを疑ったこともない。それなのに、恋すれば恋 するほど、つのるのは幸福ではなく不安。 上映を知らせるブザーが鳴り、照明がふっと落とされる。 それは始まりの合図のはずなのに、どこか終わりの合図にも似て。 −…何が終わる、いうんや。…縁起でもない。 自分で自分に悪態をついて、蓬生は足早に通路を上がった。ひやりと冷たい鳩尾をそっと 握りしめて。