●指先の角度● その日、蓬生は千秋と駅で電車を待っていた。昼下がりで眠っているような駅のホームは、 その時間帯の割には人が多い。おかしいなと思っていると、アナウンスが、少し手前の駅 で人身事故が起こったので列車が遅れていると告げた。 小さく嘆息した千秋に、 「車、とってこよか」 と声をかけると、 「ここからお前の家まで車を取りに行く方が、列車が来るより時間がかかる」 待てばいい。そう言って千秋は笑い、荷物の中から本を取り出して読み始めた。 そんな用意のない蓬生は、手持ちぶさたにぼんやりと、本を読む千秋の姿を見ていたが、 ふとどきりとして目をそらした。 …はらり、と、本のページをめくるその指先の角度に、大地を思い出したのだ。 大地と千秋を似ていると感じることはほとんどない。常に舞台の真ん中でスポットライト を浴びているような主役気質の幼なじみとは違い、大地は万事参謀気質、副将気質で、表 立つことは余りしない。だから表情も仕草も声のトーンさえも全く異なっている。 ……が、一つだけ。…猛烈な読書家だというその一点だけは、よく似ていた。 もっとも、千秋が好むのはビジネス書の類、大地が普段読んでいるのは自然科学系の新書 や研究書で、読んでいるものは全く違うのだが、ふと時間が空いたとき、どこからともな く本を取り出してくるのは同じだ。 明け方、いつもだいたい大地の方が蓬生よりも先に目を覚ます。犬を散歩させている習慣 のせいだと彼は笑う。蓬生は行為の後で疲れ切っていることが多いし、元々朝は遅い方だ。 光が一杯に差し込むような時間になってからようやく蓬生が目を覚ますと、蓬生を起こさ ないように小さな読書灯で、あるいはベッドを抜けだし窓辺にそっと寄り添って、大地は 本を読んでいる。その長い指をページの隙間にはさみながら、時折はらりと頁をめくる。 その親指の角度、人差し指の動きが。 −…同じだ。 …何故かいたたまれない心地がした。 千秋を見て大地を思い出したというだけなら、少々うしろめたくはあっても罪悪感を覚え るほどではない。…が、思い出したのが明け方に本を読む大地の姿だというのがいけなか った。 蓬生が起きたことに気付いてふっと大地が本から目を上げる。首をゆるりと回し、熱の残 る眼差しでじっと見つめ、朝方のせいで少しかすれているけれど暖かい声で、名を……。 「…蓬生」 蓬生は飛び上がった。 呼んだ千秋は怪訝な顔をしている。 「…どうした?」 「あ、…や、ごめん」 ……いたたまれない。 「ちょっと、ぼうっとしとって。……何?」 いたたまれなくて早口になる。千秋はふっと眉をひそめたが、すぐに首をすくめて言葉を 続けた。 「電車が来るみたいだぞ、と言ったんだ」 「……ああ、……ほんまや」 「……」 ぼんやりとした蓬生を見て、千秋は何か言いたそうにしていたが、彼が口を開くよりも先 に二人の前に音を立てて列車が滑り込んできた。千秋の手元で閉じられた本と耳をつんざ く大きな音の力を借りて、今思い出したものを忘れようと、蓬生はきつく目を閉じた。