●桜酔い● 「この線からこっち、入らんといてや」 蓬生が空中にぐるりと指で線を描いた。半径およそ一メートルほどの円だ。 「まるで子供のけんかだな」 大地が思わずつぶやくと、蓬生がぎろりと剣呑な目付きで睨んだので、わかった、わかり ました、と慌ててつぶやく。 「約束する。その円から中には近づかないよ」 事の起こりは他愛ないことだった。 散り際の桜を愛でつつ、のんびりと二人で散歩していたときのこと。 中に、大きく枝を広げた色の濃いしだれ桜が一本あって。…ソメイヨシノはもう花吹雪な のに、そのしだれ桜は八分咲き、今にも満開になろうという、ちょうど見頃で。 …きれいやな、とつぶやいて、蓬生が木の下に立つ。枝垂れた枝がカーテンのように彼を 覆い隠す。 紫にもえんじ色にも似た濃い桃色の中に、色素のうすい蓬生の肌や髪が見え隠れして、散 るソメイヨシノの花びらは季節外れの雪のようで。……その艶やかさに、大地はくらり、 酔わされる。 …めまいのように、頭がぼうっとした。 気付けば、大地は手を伸ばし、蓬生の腕を引いて抱きしめ、口づけていた。…蓬生も我を 忘れていたのだろうか、一瞬はおとなしく大地の腕に収まり、口づけに応えたのだが、… はたと我に返るやいなや、どんと大地を突き飛ばす。 夕方のこととて薄暗く、満開のしだれ桜の枝も二人の姿を隠しはしたものの、人目のある ところでけしからぬ行為に及んだことには変わりない。 蓬生は、自分でも気が向けばまぎらわしい行為をして人をからかったりする癖に、不意打 ちで人からされることにはひどく反発する。知っていたのについうかうかと桜に惑わされ てしまった大地は、蓬生の逆鱗に触れたのだった。 怒ったまま大地の前を歩く蓬生を追いながら、大地はしおしおと歩道橋を上がった。 問題の場所からは、もうずいぶんと離れたのだが、蓬生の怒りはいっこうに収まる気配を 見せない。それどころか、さらに沸騰しているようだ。 たまにしか会えない恋人とは、明日の早朝にはサヨナラだ。本当は、今日中に横浜に戻っ た方が大地のスケジュールとしては楽なのだが、少しでも長く一緒にいたくて、朝一番の 飛行機を予約した。新神戸から始発で出発するよりも、神戸空港の早朝便の方がほんのわ ずかでも、より長く一緒にいられるはずだと。……けれど。 −…この空気のままなら、いっそ今日中に帰った方がいいんだろうか。 そう考えたら、思わず足が止まった。蓬生はどんどん先に進んでいく。立ちつくしたまま、 その背中を大地はじっと見つめる。 蓬生は歩道橋を渡りきった。向こう側の階段を下りていこうとしている。先刻までのよう にそのまま振り向かずすたすたと行ってしまうだろう、とやるせなく見ていたら、ふと、 その動きが止まった。 何かを確認するように振り返り、ひた、と一瞬動きが止まる。その瞳が、離れたところで 立ち尽くす大地を捕らえた。 「…っ」 ……離れていても、蓬生が傷ついた顔になるのがわかった。そんなはずじゃないと戸惑っ ているのがはっきり伝わってくる。 「……!」 無意識に、大地の足が動いた。一歩ずつ、ゆっくりと、……やがて大股に、足早になり、 手を伸ばせば触れられる場所まで来て、……けれど、あと一歩、蓬生の立つ場所の一歩手 前で、ひたり、足は止まる。 「…」 それでも、蓬生のしかめ面に安堵の光がはしるのを、大地は確かに見た。 …拗ねるのは、信じているから。相手が必ず受け止めてくれると安心しているから。 そんな簡単なことを、どうして自分は忘れたのだろう。 「…っ、…阿呆っ」 大地に向かって、蓬生は吐き捨てるように言った。 「線からこっちに入るなとは言うたけど、どっか行けなんて、言うてへん」 「……うん」 「うん、て何や、うん、て」 「……俺は、ここにいていいんだな、の、…うん」 その言葉は蓬生をかすかにのけぞらせる。 「……当たり前や、…阿呆」 返答はかすれていた。 「………。……線も、……もういいかな」 「……」 「……触れたり、手をつないだりはできなくても、せめて、肩を並べて歩きたい」 大地が素直に言うと、蓬生は少し悔しそうにふいと顔を背けた。逡巡するのか、唇を噛む。 けれど、ややあって。 「…ええ、よ」 ひそりとお許しが出た。 大地は、線を越える。 「それと。…歩道橋を降りるまでなら、手をつないでもいい?」 「……人が見る」 蓬生はいやいやをするように首を横に振った。 「誰もいないよ。…誰か来たら、すぐ放す。……手をつなげばお互いがここにいるってこ とがよくわかるから、……だから」 「……」 蓬生は大地の言葉を無視するように、背中を向けて階段を下り始めた。ただ、だらりたれ た手は、大地の手を誘うようにゆるく開いている。それを見て、足早に大地も階段を下り て手を伸ばした。少し冷えた蓬生の手をしっかり握りしめると、応えて蓬生の指が絡まる ようにふわりと動くのが愛しい。 西日が、つないだ手をぽっかりと照らしながら、山の端に落ちていった。