●ラルゴ・マ・ノン・タント● そのレストランはどのテーブルも、騒がしくはないものの和やかな会話で満ちていたが、 ある一つのテーブルだけは違っていた。 「律。……さめるよ」 大地が声をかけると、律のフォークがかちゃかちゃと動いて、機械的に料理を口に運ぶ。 …が、二口三口食べるとまた放心状態になって考え込む。 オードブルやスープの間は、それでも会話をつなごうと大地も努力したのだが、メイン料 理の時にはもう諦めていた。せっかくだからと時折声をかけて、律が口や手を動かすよう に心がけるものの、せっかくの料理の味に、律は気付いてはいるまい。五感は全て、先ほ どまで聴いていた曲に奪われてしまっている。 オケ部のOBである王崎信武が久々に地元でコンサートを開くと聞いてから、律はずっと 今日を楽しみにしていた。夜の七時から開演なのに朝からずっと落ち着きがなかったほど だ。 コンサートは申し分ないすばらしさで、それだけでも充分律の期待は報われたのだが、思 いがけなかったのはアンコールの時の飛び入りだ。拍手に応えて現れた王崎が伴ってきた 人物を見て、階上は一瞬水を打ったように静まりかえり、ついで、どっとわいた。悲鳴の ような歓声も聞こえる。……彼が伴ってきたのが、稀代の天才ヴァイオリニストと呼ばれ た月森蓮だったからだ。 唐突に請われたのだろう、ステージの上にいるとは思えないしかめ面をしていた(いや、 あるいはそれが地顔なのかもしれないが)月森だったが、無伴奏で二人が奏でた、バッハ の「二つのヴァイオリンのための協奏曲」の第二楽章は、思わずはっとするほど美しかっ た。 ラルゴ・マ・ノン・タント。…ヴァイオリンの最後の響きがホールの壁に吸い込まれるよ うに消えた後も、まるでホール全体が続きを残響で奏でているようで、一瞬誰も拍手でき なかった。二人の演奏者が一礼して初めて、観客は夢から覚めたように、割れんばかりに 二人に拍手を捧げて。大地も力一杯手を叩く。……が、その横で律は微動だにしなかった。 動けないほど、音に、調べに、心を奪われてしまっていたのだ。 それからずっと、夜の街へ繰り出しても、食事のためにレストランに入っても、律は心こ こにあらずだった。機械的に空にされたメインの皿をさげてもらい、目の前にコーヒーと、 宝石のように美しいチョコレートを添えた皿がやってきても、律はぼんやりとあらぬ方を 見ていた。大地は苦笑しつつも、コーヒーは無理には勧めなかった。心ここにあらずで熱 い液体を手にして、指でも火傷したらことだと思ったのだ。 …が、ふと心づいて、悪戯半分、律の心がここにないことへの嫉妬半分で、小さな皿に盛 られたチョコレートを取り上げ、指でそっと律の口に押し込む。 律は素直に口に含んで噛みしめて、…その重い深い甘さに、ようやく目を覚まされたよう だ。 眼鏡の奥の瞳がぱっちりと見開かれ、何が起こったのだろうという顔で大地を見て、…そ の手がまだチョコレートをつまんだ指の形のまま、テーブルに肘をついているのを見たと たん、珍しく素早く状況を察したらしい。 「……っ」 耳が、早採りのトマトのような色に染まった。同じ色はうなじも染め、照れ隠しだろうか、 眼鏡のブリッジに指をかけて、 「…大地」 まっすぐ大地を見つめて、ぼそりと律はつぶやいた。 「やっと俺を見たね。…何時間ぶりかな」 苦笑混じりに大地が言うと、背中を震わせて身体を縮こめる。 「…すまない」 「いいよ、俺もおどかしたし。…おあいこだ」 「…おどかす?」 「そう。…チョコレート。いきなり口に入ってびっくりしただろう?味わえなかったんじ ゃないか?もう一つ、いるかい?」 つまんで口元に差し出すと、律は慌てて首を振った。 「いや、……いい」 それから逆襲するように、 「それより大地は」 と大地の皿のチョコをつまむので、大地は大仰に嘆くふりをしてみせた。 「律、俺が嫌いな物知ってる?」 人のいい律は、そう言われてしまうと素直にしおしおと手を引っ込める。…ので、大地は 人の悪い笑みを浮かべて小声でつぶやいた。 「…唇にもらえるなら、チョコよりもキスがいいな、俺は」 小声すぎて聞こえないかと思ったが、律は耳をもっと赤くして、眼鏡のブリッジを押さえ たままうつむいてしまった。その様子がかわいくて愛しくて、彼の意識がようやく自分に 向いたこともうれしくて、大地はにやにや笑いをカップで隠すように、コーヒーに口をつ けた。