●シャンプー●


ベッドに横たわり、しどけない格好で、蓬生はぼんやりと、寝ころんだ体勢で窓の外に見
える夕空を眺めていた。日が落ちて薄紫に暮れる空に、針のように細い三日月が光る。身
支度を整えて傍らに腰掛けた大地が、蓬生の髪を愛しげに撫でながら、おもむろにこんな
ことを言った。
「蓬生の髪の毛って綺麗だよな」
「…何や、急に。別に普通やで。髪の長い男が周りにおらんから、錯覚してるだけちゃう
ん」
「いや、綺麗だよ。手触りいいし」
真顔で髪を撫でないでほしい、と、蓬生が少し困惑していると、大地はもっととんでもな
いことを言い出した。
「なあ。…洗ってもいいかな」
「………は?」
「蓬生の髪。俺が」
「………。」
一瞬思考停止した。
「……え、……えーと、……何で?」
「洗ってみたいから」
……理由になってへん、というか、わけわからん、というか。
「俺、たぶん上手いよ。小器用な方だし、楽器さわるから爪の手入れはちゃんとしてるし。
……だから」
ね、とにっこり笑顔でおねだりされて、阿呆か!と一蹴できなかったのは、汗だくでべた
べたしていて気持ちが悪いのに、もう一歩も動けないくらい蓬生が疲れ果てていたからで。
…そして、その原因の大部分は、目の前にいる忠犬のような眼差しをしている彼で。
「……ええよ」
やけくそ気味に、責任とってもらおか的心境でつぶやく。とたん大地の顔に浮かんだ満面
の笑みに、言ってしまったことを後悔したのだがもう遅かった。


個人宅のものにしては比較的広い浴室に二人で入る。バスタブに湯を張り、身体を横たえ
る蓬生の傍らに膝をつき、大地は妙に慣れた手つきで蓬生の髪を洗っている。
小器用と自己評価するだけあって、大地の洗い方は上手かった。指はほどよく強く、手際
もいい。あまりに手慣れていて気味が悪いほどだ。まるでいつもやり慣れているようでは
ないか。
「……」
蓬生はふと考え込んだ。

−…もしかして、本当に経験豊富なんやろか。

そもそも、髪の毛が綺麗だとか手触りがいいとか言い出すこと自体、他人の髪をさわり慣
れている証拠ではあるまいか。
「…流すよ」
声をかけられてはっと我に返るよりも早く、シャワーを頭頂に当てられたが、耳にも額に
もひとしずくたりとも水をたらさない。

−…誰にでも、こんなことしてるんやろか。

…そう思うのは、何だかおもしろくなかった。で、ちくりと嫌味を言ってみる。
「えらい慣れてるんやな。…こんなサービスするん、俺で何人目?」
「は?……他人の髪の毛を洗うのはこれが初めてだよ?」
隅々までシャワーをかけて泡を流しながら、大地は怪訝そうに言った。
「とてもそうは思われへん。こんな手際ようて、それを信じろ言われても無理やわ」
「本当に初めてだよ。………ただ」
言いかけて、大地ははっと口ごもる。
「…ただ?」
水を向けると、いやいや、と首を横に振った。
「……言わないよ。…言えばきっと蓬生は怒る」
「君が男性経験豊富やろうが女性経験豊富やろうが、そんなことに妬くほど俺は狭量やな
いつもりやけど?」
「そうじゃなくて。……そうじゃなくてさ。……その」
「…その、何?」
「…怒るって」
「怒らへんって」
「いや、絶対怒る」
「絶対怒らへん」
「……」
「隠されるん気ぃ悪い」
じっと見つめると、とうとう大地が折れた。
「わかった、言うよ。…聞かなきゃ良かったって思っても知らないよ」
はあ、とため息をついて。濡れた手で、自分の髪をがしがしかいて。
「……つまり、…うちにはその、シャンプーが苦手なのがいるからさ。………一匹」
…………匹?
「……だから、嫌がられないうちに手際よくシャンプーするのは、慣れてるんだ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……。……て、犬か!」
わかったとたん、思わず叫んでしまう。とたん、うわ、と大地の手がびくついた。
「ほらやっぱり怒った。…だから言いたくなかったのにー…」
しおしおとうなだれる大地に、蓬生は慌てて手を横に振った。
「…いや。……いやいや、怒ってへんし」
…というか。…どころか。
蓬生は、振っていない方の手で口を押さえていた。喉の奥でふつふつと何かが吹き出しそ
うになっているのを抑え込もうとしているのだ。……が、押さえきれるものではなかった。
……どうにもこらえきれなくなり、天井を向いて哄笑する。
一瞬でもやきもちを妬こうとした自分がバカバカしかった。男性経験も女性経験も気にし
ないと口では言いつつ、実際は結構気にしていたのだ、自分は。ということはつまり、自
分で思う以上に自分は大地のことをちゃんと好きだということで、それを今頃自覚したこ
とがくすぐったくて、おかしくて。
あまりに蓬生が笑うので、大地は少し困っている。
「…そんなにおかしいかな」
「ちょっとつぼにはまっただけや。気にせんといて。……それよりもう終わったん?……
シャンプー」
「あと少し」
慌てたように行為が再開される。蓬生はようやくおさまってきた笑いを指の節で押さえて、
そっと目を閉じた。

−…大好き、や。

口にしない言葉は胸の中にだけ、大切に大切にあたためている。