●氷の吐息● 暗い場所で目が覚めた。 …ここはどこだろう。かすかな違和感を感じるので自室ではない。自室なら、枕元の目覚 まし時計がやけに大きい音で時を刻んでいるはずだから。 …ホテルかどこかだろうか。 頭がもうろうとしている。状況がよくわからない。…が、自分の傍らにはきっと彼がいる はずだと決めつけて、そっと名前を呼んでみる。 「…千秋…?」 「……」 動いたのは、風。吐息が揺らした風だ。その吐息はせつなく、わけがわからないままに、 そろりと蓬生の心を冷やす。 「……残念。……外れ」 おどけた声がそうつぶやき、暖かい手が額を撫でた。 「まだ夜だよ。…もう少し眠るといい」 −……千秋、じゃない。 目を開けようとすると、まるでそれを妨げるかのように額を撫でていた手が両目を覆う。 「…ゆっくり、お休み」 その声も手も、これ以上ないほど暖かいのに、彼の心がもらす吐息だけが、氷を口に含ん だときの呼気のようにひんやりと、闇の中にとけていく。 思い出せない彼の名前を呼びたくて、切なくて、…唇が震えた。