●ロビーコンサート● ホテルのロビーコンサートに律が出演するというので、大学が終わってから足を運んだ。 夕方の開演までにはまだ間があると、ロビーラウンジでのんびりコーヒーを飲んでいた大 地は、しかし、隣のテーブルに案内されてきた客を見て、思わず腰を浮かせそうになった。 「…冥加!?」 ダークスーツをきりっと着こなした冥加は、大地をちらりと見て記憶を探る顔になった。 …無理もない。大地は相手に強烈な印象を抱いているが、冥加にしてみれば大地は、見覚 えこそあれ、その他大勢の一人に過ぎないだろう。…それでも一応、 「…確か、星奏の」 とはつぶやいてくれたので、大地は少しほっとする。…お前は誰だと聞かれたら、声に出 して名前を呼んだ手前、結構切ないからだ。 「…星奏の、榊大地だ」 もうちがう大学に通っているのに星奏のと名乗るのもおかしな話だが、他に自己紹介のし ようもない。 冥加は、ああ、という顔をした。…本当に思いだしたというよりは、形式上という感じで はある。 「冥加も、ロビーコンサートを?」 問うてみると、彼はあっさり首を横に振った。 「いや、単にビジネスの打ち合わせだ。…そう問うと言うことは、お前はロビーコンサー トを聴きに来たのか」 「ああ」 大地が肯定すると、かすかに冥加の興味が動くのがわかった。 「もしや、…小日向かなでか?」 「……」 大地は問われて思わずくるりと目を丸くした。その大地の反応に、冥加も己の勇み足を自 覚したようだ。眉間にくっきりとしわを寄せ、やや目をそらす。 「…残念ながら、今日の演奏者はひなちゃんじゃなくて、律なんだ。…如月律」 そうか、と冥加は短く首肯した。 「星奏の部長だったな。…知らぬ人間でもないし、ここでお前と時間を共有したのも何か の縁だ。打ち合わせを終えて時間があったら立ち寄ってみよう」 「ぜひそうしてくれ。…律も喜ぶ」 言って、大地はぐいとコーヒーを干した。まだ開演までには時間があったが、このまま自 分がここにいては、何となく冥加が気まずいだろうと思ったのだ。 「いきなり声をかけてすまなかった。…俺は先に」 立ち去りかけ、…けれどどうしても心がむずむずして、大地はもう一度冥加を振り返った。 「……このホテルのロビーコンサートは、星奏の大学部の学生に委託されることが多いん だ。…いずれ、ひなちゃんも登場するよ」 「………」 冥加はきっぱりと大地の言葉を黙殺したが、言わでものことを言ったかと少し恥じつつ背 を向けかけたとき、冥加の口元が寂しく、けれど愛しげにかすかにゆるむのを、大地は確 かに見た。