●蜜柑● 駅へと続く跨線橋の手前で、あっさりと彼は言った。 「ここまででいいわ。…ほな」 「駅まで送るよ」 俺がわずかに抗弁すると、 「ずるずる見送られるん好かんねん。…悪いけど」 またさっくり切られる。 背を向け、歩きだす彼を、待ってと引き留めるのは女々しい。いつものかっこつけの俺な らあきらめて帰るところだ。 …だが、何故だろう。…その夜に限って、俺の足は動いた。 大股に追いかけ、坂を登る。追いついて何も言わずに腕をつかむと、さすがに驚いた顔で 振り返った。 唇が開く。非難の言葉を紡ごうとする。…その息が言葉になる寸前に、俺は彼をきつく抱 きすくめてキスをした。 …愛撫、というよりは、蹂躙に近いキスだった。 闇の深い深夜。人通りの少ない駅裏の跨線橋。少々の音はかき消してしまう電車の騒音。 俺をひどい奴にする条件が、ここには揃いすぎていた。 嫌がって首を振って逃げようとする蓬生の髪が揺れる。 ふわりと、蜜柑の香りがした。 柑橘系のコロンでもつけているのだろうか。だがしかし、調香された男性用のシトラスの 香りならばもっとシャープに爽やかに香るはずだ。 蓬生の髪から香るのは蜜柑だ。ねっとりととろけるように甘く、まといつくように重い。 −…煽られている。 襲いかかるように口づけているのは自分なのに、なぜかそう思った。 −…香りが俺を、狂わせている。 やがて蓬生の身体からくたりと力が抜ける。抵抗が消え、甘い吐息が唇の端からこぼれる。 その息も、じわりとにじむ汗すらも、蜜のように甘い、蜜柑の香りだった。