●未練●


まだ夜の明けきらぬ早朝。
傍らに眠る身体を起こさぬよう、そっと抜けだして、あくびをかみ殺しながら大地は身支
度を整える。朝一番の新幹線に乗らなければ今日の用事に間に合わない。本当は昨日の最
終で帰るはずだった。だが、情けない話だがどうにも思いが残って、ついずるずると滞在
を延ばしてしまったのだ。
さめない頭を振りながら、音を殺し、玄関で大地は靴をはく。…と、ふと、かかとに違和
感を覚えた。
「……?」
見下ろすと、くつのかかとに何かメモのようなものが差し込んである。
『無言出発厳禁』
「…っ」
大地は思わずぷっとふいた。
思いがけず室内に響いたその音に、もそりと背後で人が動く気配。振り返る大地の目の前
で、顔をしかめた蓬生が半身を起こしてこちらを見ていた。その何とも不機嫌そうな顔に、
大地は思わず顔をくしゃくしゃにして笑った。
「起こさんと帰ったら殺す、って書いてあるね」
「そんな書き方してへんし、下手くそな関西弁、やめ。気色悪い」
「…ごめん」
「…やっぱり、言わんと帰るつもりやった」
「顔を見たら、また未練が残ると思ったんだ」
「未練の一つや二つ、残していったらいいねん」
「…蓬生」
「…君は、それくらいでちょうどいい。…いっつも何も、…跡さえ、残していかへん。そ
れが綺麗やと思てるんやろ。…けど」
「…っ」
たまらなくて、愛おしくて、大地は蓬生をかき抱き、その声を己の唇で呑み込んだ。
まだそばにいたい。…もっとそばにいたい。未練が募る。
……タイムリミットまで、あと二分。