●おねだり● 彼は一見非の打ち所のない人物に見える。 恵まれた環境に生まれ育ち、品行方正、成績優秀、眉目秀麗。 …せやけど、一片の傷もない人間なんて、ほんまにこの世におるやろか。仮におったとし て、何の傷も持たへんその誰かを、人間くさく愛することなんて出来るやろか。 明日も用事あるし、もう今日はここで、と言った蓬生の手を、大地がつかんだ。とっさに したことだろう。つかんでいるのは大地なのに、その当の本人がぽかんと呆気にとられた ような戸惑った顔でいる。自分では見えないが恐らく蓬生自身も困惑した顔をしているだ ろう。 ホテルの客室階は、中途半端な時間だということもあってか人気は少ない。けれど、大の 男が夜の廊下で手をつないだまま立ち尽くしている図をもし誰かに見られたら、不審がら れることは間違いない。 「…手、放してや、榊くん」 ぶっきらぼうに促してから目にした瞳の中に、雨にうたれた仔犬のような切ない色を見て、 蓬生は吹き出したいような抱きしめたいような、…何ともたまらない気持ちになった。 −…男前、台無しや。いつもは憎たらしいほど隙を見せまいとするくせに、こんな時ばか り隙だらけで。 蓬生は小さくため息をついた。大地がかすかにびくりと震える。 −…それを俺の前でしか見せんのが、また君のずるいところや。…如月くんには、隙なん か絶対見せんのやろ?俺にだけ、そんな風に、…甘えてくるんやろ? 「…榊くん」 …かなんわあ。…ずるいやんか。…そう思いながらも、大地のそういうずるさをこそ、自 分は愛すのだ。 「…榊くん、て」 三度目の呼びかけに、ようやく大地は諦めた顔で手を引っ込めかけた。その瞳を追いかけ て、のぞき込んで。 「だんまり、は、あかんなあ」 誘う声が少し意地悪なのは、わざとだ。 「ほしいもんがあるんやったら、ちゃんと上手におねだりしてもらわんと」 「…っ」 小さく呑まれる息、逡巡する表情。…その大地のうろたえぶりを、蓬生は艶然と笑った。 …君のそんな顔が見とうて、用事もないのに用があるから帰るって言うてる俺を、聡い君 が見抜かれへん。 その愛故の君の愚かさを、誰よりも、何よりも、俺は愛す。