息嘯の風

その日は、少し灰青色に濁った雲が、とろりと空全体を覆っていた。
「一雨来ますかね」
中庭で竹簡を読んでいた柊が、ふと手を止めて空を見上げる。その前で同じように竹簡を
繰りながら、風早はさらりと応じた。
「来そうだね。君の髪がいつもよりもくるくるしているから」
「人の髪で天気を予想しないでくださいよ」
少し厭そうな顔をして、柊がじろりと風早を見たが、風早は気にした様子もなくのほほん
と口元に笑みを浮かべている。柳に風のその風情に、柊が鼻でため息をついてぷいと顔を
そらしたとき、邸の内側から空気が動いた。
「…おや」
こつこつと小気味いい歩き方で子供が(子供と呼ぶと本人はひどく怒るが)歩いてきた。
兄弟子二人を見て足取りをゆるめる。手に持つ袋の中には、なにやらごつごつしたものが
入っているようだ。昨日岩長姫の所領から届いた山の芋かもしれない。
「お使いかい、忍人」
風早がのんびり声をかけると、生真面目に彼はこくりとうなずいた。
「師君の妹君のところに、芋を届けに」
やはり袋の中身は山の芋らしい。
「気をつけていっておいで。一雨来るかもしれないよ」
その風早の言葉に、忍人はぱちぱちと二度まばたいて、空を見上げた。
「空気が湿っているからね。ほら、柊の髪もくるくるしてるし」
「だから人の髪を天気予報に使わないでくださいと言っているでしょう」
兄弟子達のやりとりに、忍人の目がくるんと丸くなる。真面目な表情が崩れて呆気にとら
れた顔になり、それからふわりと、氷がとろけるように苦笑した。
「ふ」
常には見せないそのやわらかい表情と呼気に、兄弟子達の方が少し驚く。驚かれたことに
気付いているのかいないのか、忍人はくるんと丸い目をして二人の顔を見比べると、ぺこ
りと小さく会釈をして、
「雨に遭わないうちに行ってくる」
ぽそりとつぶやくと、改めて、軽いきっぱりとした足取りで歩き出した。
「いってらっしゃい」
静かな柊の一言は彼の耳に届いたかどうか。振り返りはしなかったが、かすかに揺れた髪
の先が、柊への返答のようだった。

サザキはぼんやりと歩いていた。行く当てがあるわけではない。むしろ、外に出ずにじっ
と身を潜めていた方がいいくらいだ。そこを敢えて出てきたのにはわけがある。
少女が、訪ねてきているのだ。
彼らをかばい、かくまい、怪我をしている仲間の手当を親身にしてくれている彼女。
彼女が仲間のことをどう思っているか、言葉少ない親友が彼女のことをどう思っているか、
二人とも何も口にしないが、それと悟れぬほど彼は鈍くない。だから、気を利かせたつも
りで、
「俺、ちっと用があるから」
と、ふらふら外に出てきて、二人を二人きり、隠れ家に残してきた、のだが。
…里の方に来たのはまずかったかな。
ため息とともにひとりごちる。
生まれ育った高千穂や筑紫のあたりでは、日向の一族は珍しがられはしない。山奥に引き
込むように暮らしているとはいえ、物々交換をしに里に下りることもあるからだ。
だが橿原では勝手が違う。橿原の里人達は、狗奴の民は見慣れているようだが土蜘蛛や日
向の民を見かけることはほとんどないと見えて、ちらりと姿を見せただけでも、ひそひそ
こそこそとこちらをうかがいつついぶかしげに何事かをささやき交わす。その声は風に吹
き寄せられる枯れ葉のようにかすかな音で、何を言っているのかはわからないのだが、聞
こえそうで聞こえないそれは、ひどく耳障りでうっとうしい。
二回目のため息をかみ殺したとき、ふと、背後から少し質の違う視線を感じて、サザキは
意識をそちらへ向けた。
そこにいたのは、こざっぱりした格好をした少年だった。
…見覚えのあるその姿に、サザキは少し首をひねった。
先刻、里に入る手前の十字路で行き合った子供だ。サザキが来た方へ歩んでいく様子だっ
たのだが、なぜここにいるのだろう。
別の子供を見間違えているわけではないと思う。確信が持てたのは、彼の衣装や持ち物が、
このあたりの里の子供のものとは格を別していたからだ。もっと宮に近い、貴族の邸が建
ち並ぶような場所で見かけたなら記憶にも残らなかったかもしれないが、こんな鄙びた里
には美々しい格好の子供が通りかかること自体が珍しい。
……否。
サザキは自分の考えをじわりと否定した。
……宮の近くで行き合っても、目に付いたかもしれない。
そう思い直したくなるほど、彼の視線は鮮やかだった。
その射るような視線は、里で見かける子供達の興味本位の眼差しとは違い、どこか計るよ
うな鋭さを帯びていた。
サザキの胸の中で、何かがざわつく。
接しなければいい、そのはずなのに、…言葉は口をついて出た。
「…珍しいか?」
少年は、その問いが自分に向けられたものだと気付いたようだったが、その問いが何を意
味するのかを計りかねるように、少し眉をひそめた。
ので、サザキは言い直す。
「このあたりでは日向の民は余り見かけないだろう。…俺の姿が物珍しいのか?」
かみ砕いた問いは、今度は少年の胸にすとんと落ちたようだ。ゆっくりと彼は首を横に振
った。
「日向の民に会うのは初めてじゃない。……もっとも、宮以外の場所で会うのは初めてだ
けれど」
きりりとした、けれどどこか子供らしい柔らかさも残した声だったが、声よりもその言葉
の内容にサザキは少し驚いた。美々しい装いの子供だからいいところの公子だろう、くら
いの想像はしていたが、この幼さで宮に出入りするほどとは思っていなかった。
「お前の姿は気にならない」
自分よりも遙かに年下と思える子供にお前呼ばわりされてむっとしたのもつかの間、
「だが、なぜお前がそうもこそこそしているのかが気になる」
と言われて、サザキは息をのんだ。
「すれ違ったときから、気になっていた。お前は足音を潜め、辺りをはばかるように歩い
ている。……なぜそんな歩き方をする必要があるのか、気になった」
よからぬことを考えると、人は息を声を音を潜めるようになる。
静かに指摘されて、サザキは胸の底がずしりと重くなった。
……元より、自分は賊だ。宮に盗みに入ろうとした賊だ。だからよからぬ者と言われても
仕方がない。
だが、盗みにはいるとき、息を潜めねばならぬとき以外の、こんな日常の場所でまで、こ
そこそと人目やお天道様をはばかっていたつもりはなかった。まっすぐに前を見て、空を
見て歩いていたつもりだった。
だが違ったのか。こんな子供の目から見ても、俺はこそこそと卑屈に歩いていたのか。
「………」
サザキは唇を少しかんだ。
それが隠れ家の傍だったなら、親友と少女の語らいを妨げないため、と自分に言い訳でき
たかもしれない。だがここはちがう。
ここに親友と少女の姿はない。自分を賊だとはっきり知っている者もいない、はずだ。だ
からここでこそこそする理由はない。…つまり自分は、日向の民に向けられる好奇の視線
に負けているのだ。
サザキは自分をあざけるように少し嗤った。
その嗤いをどうとったのか、少年の瞳はまた少し厳しくなった。
「だから、お前もそういう輩かと、……ならば気付いた俺が止めねばならないと、そう思
った」
「……って、お前が俺を止めるのか!?そんなちっこいのに!?」
思わず叫んだサザキに悪気はなかったのだが、それはどうやら子供の誇りを傷つけたらし
い。
一瞬にして抜かれた二振りの刀に思わず、丸腰を強調するかのように両手を挙げてしまう。
愛用のチャクラムは隠れ家に置いてきていた。平和な里では余計な詮索の種にしかならな
い。
少年も、サザキの丸腰を見て取ったのだろう。すらりと刀を収め、代わりに唇をとがらせ
る。
「子供扱いしないでくれ」
ったって、子供じゃん、と言いたいのを堪えて飲み込む。言えば確実に、再び二振りの刀
がサザキの急所を狙うだろう。見た目といい、不満そうに唇をとがらせる仕草といい、そ
もそも自分を子供扱いするなと言うこと自体、子供の証明だと思うのだが。
「…子供扱いして悪かった。それは謝る。が、お前さんも丸腰の相手に刀を振り回すのは
よくないぜ。…俺は別に、悪だくみはしてねえ」
今はな、という言葉は心の中で付け加える。少年は、多少承伏しかねるという顔をしてい
たが、それでも素直に、悪かった、と謝った。
「…でもじゃあ、どうして辺りをはばかるように歩いているんだ」
「お前さんから今言われるまで、自分がこそこそしているとは思ってなかったよ」
正直に言うと、少年は目をくるりと丸くした。サザキは肩をすくめた。肩をすくめて息を
吐き出すように笑った。
……笑うと、吐き出した息と一緒に、何かくさくさしたものが自分の中から出ていくよう
だった。
自分が日向の民だから、里人達はひそひそと何かを言い交わしているのだと思っていた。
だが、違うのではないか。
日向の民であることを意識しすぎていたのは自分自身だけなのではないか。意識して、そ
れ故に周りの視線や話し声に過敏になって、自分が日向の民だから何か噂されているので
は、と、ありもしない陰口を勝手に自分の中に作り上げていたのではないか。
人が怪しんでいるのは、日向の民としての自分ではなく、こそこそと人目や人の噂をはば
かっている自分の姿だったかもしれないのに。
「…俺はたぶん、ありもしない陰口に振り回されていたんだろうなあ」
そう言って大きく伸びをすると、ようやく少年の瞳から険が取れた。
「…それは、…自分が日向の民だから、か?」
さっきサザキが図らずも口にしてしまった一言を、彼はちゃんと覚えていたようだ。そう
だよ、とサザキは認めた。
「人がちらちらちらちら俺を見ているような気がして、…俺が日向の民だから物珍しいの
か、ってむかむかしてた。俺は自分の姿を気に入ってるのに、ってな。……でも、よく考
えりゃ、里の連中が最初俺をちらちら見てたのは違う理由だよなあ」
街道沿いでもない小さな村だ。見慣れぬ人間がいれば用心する。それは日向の民だろうが
普通の姿の人間だろうが、同じことだろう。この少年の姿だって、このあたりの里には似
つかわしくない。じろじろと見られ、ひそひそと噂話の種にもなるはずだ。
「それに今気付いた」
正直にそう言うと、少年の顔がかすかにほころんだ。険が取れて柔らかくなった子供の顔
は、その髪型とも相まって少女のようにかわいらしかった。
笑ってる方がいいな、と思ったら、彼もサザキを見て
「その方がいい」
とぽつりと言った。
「…あ?」
「お前はなんだか、太陽みたいだ。こそこそしているのは似合わない。そうやって相手に
懐を広げてみせて、朗々と笑っているのが似合ってる」
…サザキは顔をくしゃくしゃにした。
……そうか。うん、そうだな。こそこそするのは性に合わない。
「…ありがとうな。…なんか、お前と話してすっきりしたぜ。……礼に、いいこと一つ教
えてやる」
「……?」
「こんな天気だけどな」
サザキは空を見上げる。空は相変わらず、とろりと曇っている。
……だが。
「明日の明け方くらいまで、雨は降らない。安心してお使いに行ってきな」
少年はまたくるんと目を丸くしてから、首をかしげた。
「知り合いは、雨になると言っていたが」
「降らねえよ」
サザキ達日向の民は風が見える。風が見えると風が運ぶ雲も見える。故に、雨風について
の予想はほぼ完璧だった。少年は日向の民のそうした一面は知らないのだろう。怪訝そう
に首をかしげたままだ。その不思議そうな顔は年相応に幼くて、サザキを愉快な気持ちに
させた。
「…じゃあな。気をつけて行けよ」
手をひらひら振って、サザキは里の方へと歩き出した。今度は堂々と、胸を張って。
背後で少年がきびすを返す気配がした。……やはり、彼の使いの先はもっと向こうの方だ
ったのだ。サザキのことが気になって、使いを放り出してサザキの後を追ったのだろう。
その妙な正義感がなんだかおかしくて、サザキは小さく笑った。
なんか、気に入ったぞ、あの子供。

早朝、サザキがどかどかどかと天鳥船の堅庭に入っていくと、先客がいた。
ひいやりとした空気の中、黒い影のような立ち姿。……忍人だ。
じろりとサザキを見て、
「どうしていつもそんなに騒々しいんだ」
むっつりと苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「わりいわりい」
口ではそういうものの、笑うサザキの顔はどう見てもすまなそうではない。忍人はため息
をついて、それでも、それ以上言っても無駄だと思うのか、ふいと顔を背けて空を見た。
傍に立って西の空を透かし見たサザキは、思わず「お」とつぶやく。
「雨になるな」
忍人は片眉を上げ、サザキを見た。
「いい天気だが」
見える限り、空は青く晴れ渡っていた。薄く広がる雲もないではないが、雨を降らすほど
とは思えない。サザキはしかし、肩をすくめた。
「向こうから」
と西にあごをしゃくってみせ、
「吹く早い風が雨雲をのせてる。昼過ぎには降り出すだろう」
「…そうか」
忍人は首をすくめて苦い顔をした。
「今日は行軍に使う天幕を虫干ししようと思っていたんだが、また別の日にしよう。濡ら
しては元も子もない」
その、サザキの言葉を毛ほども疑わないそぶりに、逆にサザキの方が眉を上げ、くすぐっ
たい顔をした。
「信じるのか」
忍人は真顔で問い返した。
「冗談だったのか」
「や、冗談を言ったわけじゃねえけど」
けど、なんつうか、その、と頬をぽりぽりかくサザキに、忍人は表情も変えずにすらりと
言う。
「あの日も降らなかった」
お前の言うとおりだった。
「……」
あの日って、とは、サザキは聞かない。忍人も説明しない。あの時出会ったのが誰なのか、
互いにもう気付いている。
「……でっかくなっちまって」
サザキがため息をつくと、
「お前は変わらない。外見も中身も」
忍人もため息をついた。
二つのため息が重なって、やがてどちらからともなく低く笑い出す。
ひやりとした秋の風が、遠くから雨の匂いを運んできた。