音楽の妖精 久々に校内を見学したいとOBが言うので、大地は自発的に付き添いをかってでた。 あそこがきれいになっている、ここは変わってないとさんざん騒いだ火原は、自主練習中 のオケ部員が集まる音楽室をのぞいた後でしみじみと慨嘆した。 「今のオケ部は凄いなあ」 「…というと?」 度重なる大騒ぎの相手をして、とうとうすまし顔を崩されてしまった大地は、失礼とは思 いつつ、にやにや笑いの顔を先輩に向けた。 「だって、普通科の子が入部してるでしょ。…俺たちの頃は、どんなに勧誘しても『世界 が違う』みたいな顔されたよ」 大地のにやにや笑いはゆっくりと苦笑いに変わった。 「…今だって、俺だけですよ。…単に俺が図太いだけです」 「えー?図太いだけじゃあ星奏のオケ部は続かないよ」 楽じゃないでしょ?昔からそうだった、と火原は明朗に笑う。 「だから、今のオケ部にはそれだけの魅力があるんだろうなと思ったんだ。辛くても続け られる、何かがさ。…それが、すごいなあって」 そこでふと、火原はまじまじと大地を見た。 「やっぱり、榊くんも音楽の妖精に会ったの?」 ……っ!? 驚きで、げほ、とむせた大地をあーあと見やり、当たり前のような顔をして火原の母校鑑 賞ツアーに付き合っていた衛藤は額を押さえた。 「和樹さん、駄目でしょ、後輩困らせちゃ」 「え?…へっ?…いやだって、俺、困らせたつもりは…」 「だって現に困ってるよ?…和樹さんがいきなりメルヘンなことを言い出すから」 大地はもう一度むせそうになって、今度はこらえる。幸い二人は大地を見ていない。呆れ 顔で火原を見る衛藤に、火原は必死に抗弁する。 「本当に星奏には音楽の妖精がいるんだよっ!」 「はいはい、銅像のね」 「うわまたそうやって馬鹿にしてー!ちがうって、銅像もあるけど、本物も本当にいるん だって!!リリっていってさ、俺たちの学内コンクールの時には、そのリリが普通科の女 の子をコンクールに出場させたんだよ!だからもしかしたら、榊くんも妖精と会ってこう してオケ部に入ったんじゃないかと思ったわけで、つまりその…」 まだ火原は言いつのろうとしているのだが、衛藤は適当にひらひらと手を振って、くるり と背を向けた。そうして、ようやく平静を装うことに成功した大地を見てにやりと笑い、 ぽんとその肩を叩く。 「…大丈夫?」 「あ、はい」 そう、と言って衛藤は首をすくめた。 「ごめんね、一応弁護しておくけど、あの人からかってるつもりも悪気もないから」 「…大丈夫です。音楽の妖精って言われて、ちょっと驚いただけで」 「ま、普通驚くよね」 衛藤はくすりと笑った。 「…衛藤先輩は、あまり驚いていませんね」 「まあ、そうだね」 「見たことが?」 「いや、俺はあいにく、銅像の方はともかく、羽が生えて空を飛んでる妖精は見たことが ないよ。でも、火原さん達コンクールのメンバーからはさんざん聞かされてるから、聞き 慣れてるんだ」 「本当にいるんですか?」 「らしいよ?…でもよく知らない」 いかにも現実主義者らしい彼の顔で言われると、本当なのかなと思えてくるから怖い。大 地は首をすくめた。そんな大地を横目で見て、衛藤はにやりと笑う。 「妖精はともかく、ミューズなら見たことはあるよ」 「………は?」 「ミューズ。…音楽の女神」 …自分も結構恥ずかしいことを口にしてはばからないタイプだが、衛藤さんには負ける、 と、基本発想が自然科学の大地はしみじみと思った。 「…それは、実在の?」 「もちろん」 俺はリアリストだからね。幻の妖精なんかじゃないよ、と、首をすくめて。 「…彼女を見たから、俺は星奏に来た。…もし彼女と出会わなければ、たぶん素直にここ には来なかった」 そう言ってから、なぜかまじまじと衛藤は大地を見つめた。探るような視線に大地が用心 しかけたとき。 「君も、そうなんだろう?」 …低い声で言われる。 「君にも君のミューズがいたから、…こうしてここにいる。…ちがう?」 ……っ! 大地は衝撃を喉で緩和して呑み込み、あくまで平静を装って笑った。 「………。……何故、そうだと」 「…君は俺と同じ匂いがするから」 そう言って、衛藤も笑う。 「結構なリアリストだろう?その君が、普通科の初心者という立場でオケ部に入る。…… ただなんとなくじゃ、納得できないね。明確な理由がないと」 ミューズが誰なのかも、なんとなく想像はつくけどね。そこは指摘しないでおこう。俺も 人でなしじゃない。 ぽん、と肩を叩いて、何気ないそぶりで衛藤は大地から離れた。そしてまだあちこちきょ ろきょろしている火原に声をかける。 「そろそろ行こうよ、和樹さん。…榊くんも練習があるんだから、これ以上拘束しちゃ悪 いだろ」 「あ、そうだね。…ごめん、俺ほんと、そういうところ気がきかなくってさ」 悪いことしたね、と謝られて、いえとんでもないと恐縮するのは大地の方だ。そもそも自 分からかって出た話なのだから。 ありがとう、と言って、火原はまた首をかしげて。 「…あのさ。…まだ言うかって言われそうだけど」 「…?」 「音楽の妖精は、姿を見せなくても君たちを見てる。…きっとね。…だからいい音楽を聞 かせてやって」 ………。 「……火原さん。……もし」 ……もし、そうしたら。…その妖精は、律の腕を治してくれますか。 頭に浮かんだ馬鹿馬鹿しい問いを、大地は呑み込む。 「…ん?」 「いえ、なんでも。…じゃあ俺はここで失礼します」 「うん。…コンクール、がんばってね!」 「はい、ありがとうございます」 立ち去る二人を見送ってから、大地はきびすを返した。…振り返って目に入ったそれに小 さく笑う。小さな羽根と魔法の杖を持った妖精の像。……今の今まで、ただの飾りだと思 っていた。いや、今でも思っている。 「……本当に音楽の妖精なんてものがいるなら、…律の腕はあんなことにはなってないよ な」 苦い声は誰にも届かない。…大地はまぶしすぎる夏空を仰ぎ、…ため息を一つだけついて から歩き出した。