温泉に行こう!

ちゃぷーん、…と、どこかで水がはねる音がした。
「…いいお湯ですねえ…」
風早が感に堪えないという顔でうっとりとつぶやいた。那岐は無言のまま、あごまでお湯
につかっている。布都彦は熱いところにつかってはあがり、あがってはつかるということ
を繰り返している。遠夜はにこにこしながらその様子を眺めている。
その遠夜の肩を、風早がちょんちょんとつついた。
「…?」
「遠夜、こういうときにはこの歌を歌うんですよ。『いい湯だな』と言ってね、こう…」
ぱかん、と那岐が風早をはたいた。
「余計なことを遠夜に仕込むなよ、あんたは!」
「どしたあ?」
少し離れたところで体を洗っているサザキが、声をかけてきた。風早の声が聞こえず、那
岐の怒鳴り声だけが聞こえたのだろう。何でもないよ、と那岐は首をすくめて叫び返した。
「しかし、アシュヴィンやリブも来れば良かったのになあ」
羽根も洗いながら、サザキはよく響く声で言った。
「常世には皆で湯につかる風習がないと言うんだ。しかたないだろう」
カリガネがその傍らで静かに応じる。
「ま、確かに。今まで一度もそんなことしたことがないのに、いきなりみんなで湯につか
ろうとか言われたら、ひくよな、殿下だし」
「…いや、殿下かどうかはまた別の話だと思うが…」
真面目に話しているのか、ボケとつっこみなのか、よくわからない。
そこへ、ふらふらと柊が戻ってきた。
「どこに行ってたんだ?」
サザキに問われて、はばかりですよ、聞かないでくださいいちいち、と応じてから、おや、
と彼は首をかしげた。
「忍人はどうしました?」
答えたのはサザキではなく、少し湯を冷まそうとふちに近づいてきていた那岐だった。
「持ってきておいたはずの体を拭く布が見あたらないって、取りに行ったけど」
「ええっ!」
叫んだのは布都彦だった。
「そ、そんな、葛城将軍お一人にそんなことをさせるわけには!私も!」
「いいんじゃないの、別に。たいして重いものでもなし、忍人は服脱ぐ前にそれに気付い
たから行ってくれただけだし。…布都彦、もうびしょ濡れじゃん」
と、那岐が至極まっとうなことを言ったときには、しかし、布都彦は濡れ鼠のまま簡単な
服だけを身にまとっていた。
「いいや、那岐。全員分の布となれば、それなりの量だ。重くなくともかさがあるだろう。
私がお手伝いしてくる!では!」
そのまま、だだだ、と行ってしまう。
「……いってらっしゃーい」
ひらひらと手を振る那岐の横で、柊が頬をかいている。
「…私はまだ服を着ていますから、私が行こうかと思ったんですけどねえ」
「言ってやればいいのに」
那岐がねめつけると、
「…言う暇もなかったじゃありませんか」
ため息と共に言い返された。…それは全くその通りで、那岐は首をすくめる。
「まあ、いいんじゃない?…どうせあんたが行ったら、忍人の機嫌が悪くなるだけだし」
「…君も、厭なことを言いますね」
「事実だろ」
そうですねえ、と柊は首を傾けた。……湯の脇に立っているというのに、なぜか、彼は服
を脱いで湯につかろうとはしない。
…那岐は、少し厭な予感がした。

忍人は両手に布を抱えて歩いていたが、ふと、足を止めた。
「…来るとき、こんなにもやっていたか?」
もうもうとあがる湯気で、どうにも視界が遮られる。足元の、人が歩いて踏みしめた道の
跡だけを頼りに歩いていると、ふと、もやが薄れて視界が開け、ちゃぷん、とお湯のはね
る音がして。
「……」
「……」
忍人の目の前で、肩まで湯につかった千尋が、目を丸くしていた。
「…お、…忍人さん?」
「…失礼」
「…!!!」
忍人がくるりときびすを返そうとすると、千尋が叫んだ。
「忍人さんが!忍人さんが今、失礼って!!」
………その前に、叫ぶ言葉がありはしないか、姫。
…きゃー、とか。普通。
「それが、どうか」
忍人は話しかけてきている姫に完全に背を向けたものかどうか迷って、中途半端に体をひ
ねったままでいる。
「だって、最初に私が水浴びしていて出会ったときは、失礼さえ言ってくれませんでした
よ!」
…実は根に持っていた姫である。
忍人は渋面を作った。
「…その節は、大変すまなかった」
苦虫を噛みつぶしたような顔で、耳だけ赤くしている。千尋もはっとなって、口元までぶ
くぶく湯につかった。
「…いえ…。…私も根に持っててゴメンナサイ…」
もごもごとこもった声でわびられて、忍人はいっそうに赤くなった。完全に千尋に背を向
けてしまったので、千尋も赤くなっていることには気付いていない。
「…ところで、どうしてここに?」
先に我に返って話を進めたのは千尋だった。
「ああ、体を拭く布が見あたらなかったので、取りに戻ったんだが、途中で道を間違えた
ようだ」
「?でも私は途中でみんなと別れて道を曲がりましたけど、みんなはまっすぐ一本道でし
たよね?」
「そうだな。自分でもらしくない気はするが、どうにも湯気がひどくて。…失礼した。…
すまなかった」
重ねて謝られて、千尋は首をすくめる。
「いいえ。…帰りは気をつけて」
「ああ、そうしよう」
そう言って、忍人が一歩踏み出しかけたときだった。突然もやを抜けて、目の前に布都彦
が現れた。
「ああ、葛城将軍、よかった、追いついて…」
布都彦の言葉が途中で途切れる。
「……姫!!??」
叫んだとたん、布都彦の顔が頭頂までかーっと赤くなった。
「な、何という…!将軍ともあろう方が、なんと破廉恥な!!姫の湯浴みを、の、のぞく
とは!!」
両の拳を握って、いやー!とばかりに絶叫する。
「……は?」
忍人はあっけにとられて目を丸くした。湯に潜ったままの千尋は、片手で額を押さえる。
「…いや、…まあ、…布都彦らしい反応ですよね…」
「破廉恥です!破廉恥きわまりないです!!」
…布都彦はまだ叫んでいる。忍人が布都彦の激しい反応に呆然として、かける言葉もない
ようなので、やむなく千尋が声をかけた。
…が、…その言葉がまずかった。
「布都彦、忍人さんのこと、そんなにせめないで。わざとじゃないし」
そこまではよかったのだが。
「ほら、布都彦だって今はのぞいてるんだから、同罪なわけで」
「まて、姫、それは…」
忍人でさえはっとなって、千尋の言葉をとどめかけたのだが、時既に遅く。
「わ、私も、…私も、の、の、のぞ……!!!」
…その事実の衝撃に堪えかねてか。
うーん、と一声うめいたかと思うと、布都彦は卒倒してしまった。
「…………あ」
「あ、じゃない」
ぴしりと叱られて、千尋はうう、と首を亀のようにすくめた。
「だって、つい」
「君に悪気がないのもわかるが」
忍人の眉間にしわが一つ増えたとき。…もう一つしわを増やす男が再びもやの向こうから
現れた。
「……おやおや」
にっこり、笑ったのは柊だ。
「なにやら悲鳴が聞こえたので来てみたら」
「…のぞきが増えたな」
しかめ面でぼそりと忍人が言うので、千尋は思わず吹き出して、そんな場合じゃないと思
わず手で口を押さえた。…そもそものぞかれているのは自分なのだが、もうこの際それは
どうでもいい気がする。
「布都彦と葛城将軍がそろって出歯亀とは」
「…!…何を、わざとらしいことを」
ぴんときたらしい、忍人が本気で怒った顔になった。
「原因はどうせお前だろう。…迷うはずもない道に術をかけて、わざと迷わせたな?」
「…おや、ご明察」
けろりと言う柊に、さすがに千尋もむっとした。
「柊!」
「申し訳ございません、姫。…布都彦をからかえるという誘惑に抗えませんでした」
…いや、そこは抗ってよ、ねえ、と思う千尋である。
「ただ、術にかかるのは布都彦の予定だったのですよ。布がないと気付けば、取りに行く
のはきっと布都彦だと思ったのでね。…君が意外と心優しいことを失念していたよ、忍人」
「…柊」
そういう場合ではないと思うのだが、忍人がついに布を傍らの岩に置いてすらりと破魂刀
を抜いた。
「もう堪忍袋の緒が切れた。そこに座れ。破魂刀の錆にしてやる!」
「おや、いいのですか?私をここで斬れば、あなたは私の死体と気絶した布都彦と拭布と
を一人で運ばねばなりませんよ?それとも、何度も姫の湯浴みの場にお邪魔するつもりで
すか?」
「………!」
あまりの言いぐさに声も出ない忍人とにんまりと笑う柊を見やって、千尋はため息をつい
た。
「…柊。…布都彦を連れて行ってあげて。…忍人さん、怒りはもっともですけど、とりあ
えず刀は収めてください」
ここは千尋がこう言わねば収まらない。
「……君がそういうなら」
忍人は渋々刀を収め、
「大変失礼をいたしました、姫。…責任を持って、気絶した布都彦は連れて戻ります」
柊は恭しく一礼した。しかし、
「将軍の機嫌も取っておきましょう」
「それはしなくていいから」
余計な一言も付け加えたので、千尋は本気で慌てて止めた。この上柊に機嫌を取られたの
では、忍人が怒髪天を衝くことは間違いない。
「御前、失礼いたします、我が君」
「騒がせてすまなかった。…俺が言えたことではないが、ゆっくり暖まってくれ、二ノ姫」
こもごもにらしい一言を残して立ち去る二人を見送って、千尋はまたぶくぶくと口元まで
湯につかった。
…とりあえず、みんなのところに戻るまでに、柊が破魂刀の錆にならなきゃいいけど。

「…なるほど、そんなことが」
回廊で苦笑しているのは、温泉お留守番組だった道臣である。
「戻ってきた布都彦に温泉のことを聞いたら、真っ赤になったきり何も言ってくれないの
で、何があったのだろうと心配していたのですが」
「そういうことだったんです」
千尋は応じて、はあ、とため息をついた。
「夕霧も柊も、どうして布都彦をからかいたがるのかなあ。柊なんか、布都彦があれを教
えろこれを教えろって言うと逃げるくせに」
「夕霧殿は、単に布都彦がうぶなのでおもしろがっておられるだけでしょうが、…柊は…」
道臣はそこまで言って、言葉を切った。
「…道臣さん?」
「ああいえ、…私の勝手な推測ですので」
「言いかけてやめないでください」
千尋が唇をとがらせると、おっしゃるとおりですね、と道臣は苦笑した。
「…本当に、私の勝手な推測なのですが。…私もそうですが、柊も、布都彦を見ると羽張
彦を思い出さずにはいられないのだと思います」
「……布都彦の、お兄さんね?」
「…ええ」
道臣は千尋から視線をそらした。
「柊は、私以上に羽張彦と仲が良かった。きっと、布都彦とずっと一緒にいると、羽張彦
が思い出されてたまらなくなるのではないでしょうか。だから、なつかれると逃げ出すの
です。…けれど、かまわずにもいられない。…そして彼は、ああいう性格ですからね。素
直にはかまえない。…忍人を見ていれば、おわかりでしょう?」
「…ああ、はい」
それはもう、とてもよく。
千尋が額を押さえたので、道臣はまたおっとりと苦笑した。そして、これは本当に、私が
考えているだけのことですよ、事実であるかどうかはわかりません、と念を押して。
「…もう一度、布都彦の様子を見てきます」
ふわりと身を返し、回廊を去ろうとするその背中に千尋は声を掛けた。
「道臣さん、…次は、一緒に行きましょうね、温泉」
「…はい」
振り返って、うなずきながらも少し道臣は怪訝そうな顔をしている。誘い方が唐突に思え
たのだろう。
「布都彦を、助けてあげてね」
ああ、と道臣は苦笑して、でもどうでしょう、と首をかしげ、珍しく悪戯っぽい顔をした。
「今回のような悪戯なら、私が手を出さずにいた方が、布都彦にも多少の免疫が出来て良
いかと思いますよ。…いろんな意味で」
そういって、今度こそ去っていく。…その背中を見て。
「…なんだかんだ言って、道臣さんも結局岩長姫の弟子なんだよね」
と思う千尋であった。