お降り<おさがり>


その日は朝から、じわじわと身体にしみこむようなみぞれまじりの冷たい雨が降っていた。
那岐が身支度を整えて自室から出ると、廊下の軒の下で誰かがぼんやりと中庭に降り続く
雨を見ている。…白い横顔に、那岐は小さく笑った。
「…おはよう、忍人」
呼びかけると忍人はゆっくりと振り返って、おはよう、と静かに言った。
「雨になっちゃったね。新年の儀式は、もう一通り終わったんだっけ」
「いや、まだ少し残っている。だが屋外で行うものは少ないはずだし、お降(さが)りは
その年の豊作のしるしだ。問題ない」
あまり聞き覚えのない言葉がぽんと一つ出てきて、那岐は思わず聞きとがめた。
「…なんだって?」
「…?」
「おさがりって、何?」
…ああ、それか、という顔を忍人はした。
「正月のこういう天気のことだ。宮中では正月は忌み言葉を避けるから、代わりに『お降
り』と呼びならわす」
忍人がはっきりとは言わないのは、どうやら「ふる」とか「雨」「雪」という単語らしか
った。…へええええ、と、那岐は少々鼻を鳴らす。
「いいわけ?…そういう忌まれるものが正月早々降っちゃって」
「問題ない。…言っただろう?お降りはその年の豊作を約するものとみなされる」
「…じゃあ、正月がずっと晴れたら?」
「それはもちろん、陛下の御代の栄えの証だ」
「……」
那岐はとうとう吹き出してしまった。
「ああいえばこういうっていうか、なんていうか…。…すごいな、何でもいいふうに解釈
するんだね」
「正月だからな」
忍人には慣れたことなのだろう。不思議がり、苦笑する那岐に、少し困った顔をしている。
「一年の始まりだ。何事も祝意として受け止める。そうして民を安心させる。世を治める
というのはそういうものだろう」
「…」
今度、砂を噛んだような困惑の顔になったのは那岐だった。
「…うん、わかってる。王がいちいち凶兆に怯えていちゃいけないだろうし、民を安心さ
せることは必要だと思う。…でも、何だか」
那岐は言いたいことを上手く言葉に出来ずに唇を噛んだ。
「…そうやって、型にはめたみたいに何でもいいこといいことって思いこんだり、政はそ
ういうものだって自分の中に呑み込んじゃう感覚は、僕にはどうしても、慣れない」
「…」
忍人はそっと眉根を寄せた。
自分の中から必死に言葉を紡ぎ出そうとしている那岐は、それに気付かない。
「…ねえ、忍人はさ、四角い竹って知ってる?」
「四角い、…竹?」
「うんそう。…竹ってさ、切ってみると断面は丸いだろう?その切り口が四角い竹。…簡
単に作れるらしいんだ。竹の子が地面から先をのぞかせた時点ですぐに四角い枠をはめて
おくだけ。枠の中で四角くなった竹の子はそのまま、四角く四角く伸びていくんだって」
…落ち着いて思慮深い声が、静かに那岐の言葉の後を追った。
「…つまり、宮に住む人間は皆そうして四角くたわめられていると?」
「…」
那岐は忍人をまっすぐに見た。忍人も那岐をまっすぐに見ていた。…気遣われていると気
付いて、那岐は少し皮肉を気取って笑う。
「四角い竹は、自分が本当は丸いなんて知らない。だから自分が四角いことを何とも思わ
ない。でも僕は元々丸く伸びることを知っているから、…たぶんそれで、ほんの少し厄介
なんだよ。…時々、ね」
忍人は那岐から目をそらさない。
「俺は、君の表情に、籠におしこめられた鳥を思い出すことがある」
眉をひそめたまま。何かどこかが痛むように。
「君を、宮という四角い枠に押し込めているのは、…っ」
那岐は忍人の言葉を遮るようにいきなり口づけた。
「…それ以上言うな、忍人」
「…那岐」
「僕は好きでここにいるんだ。僕はここにいるのは僕のためだ」
無言で抗議するような忍人の眼差しは、忍人から無理矢理言葉を奪ったからか、あるいは
いきなり口づけたからか、と思っていたら、答えはそのどちらでもなかった。
「見え透いた嘘はつくな」
きっぱりと言われて、那岐は思わず苦笑した。
「那岐」
忍人の不機嫌さが増す。
「ごめん、忍人があんまりきっぱり決めつけるから」
「…」
「嘘なんかついてない。僕が僕の意志で宮にいるのは本当だよ。それはもちろん、宮に千
尋がいて忍人がいるからというのがその理由だけど、それでもここにいることを選んだの
は僕だ。誰にも無理強いされてない。それに僕は、四角い枠にはめられても丸く伸びてい
くし、籠のなかでも好きなように羽ばたくよ。ちゃんと籠から抜け出す方法だって知って
る。…心配しないで」
「…」
「君が心配してくれているほどは、僕はここの生活を窮屈には思っていないよ。あの狭井
君だって、なんだかんだで僕のことは好きにさせてくれてる。治世のことはわけがわから
ないし、宮のやり方には慣れないけど、ここにいることとここの人達は嫌いじゃないんだ。
本当だよ」
「…」
「もしそれでもどうしても忍人が心配なら、時々僕に勇気をくれればいい。手を握って抱
きしめて、大丈夫だと言ってくれればいい」
忍人は真面目な顔でうなずいて、長く外にいて冷えた手で那岐の手を取り、無言で握りし
めた。…抱きしめてはくれないんだね、とからかうように那岐が言うと、耳を真っ赤にし
て、やがておずおずと、那岐の手を握っていない方の手で那岐の肩を抱き、その肩に額を
預けた。応えて那岐は、忍人を抱きしめる。

−…君は自覚してないかもしれないけど、君だって籠の中の鳥のような顔をしてここで生
きているんだよ、忍人。

冷たい身体にゆっくりと自分の熱を移しながら、那岐は唇で笑う。

−…でも大丈夫、僕もここにいるからね。君が押しつぶされそうになったら、僕が抱きし
めてあげる。守ってあげる。大丈夫だよと繰り返し、君の背を撫でてあげるから。
−…一緒にいよう、忍人。……大好きだよ。