落とし物 「全然あかん、やり直し」 にっこり笑ってうれしそうに、何度目かの同じ言葉を繰り返され、大地は苦笑いを通り越 して、拗ね笑いとでもいうべき顔になってしまった。 律も容赦ない教師だったが、蓬生の教え方はそれに輪をかけて容赦がない。何より違うの は、律が基本無表情で、ほめるときだけ少し顔をほころばせるのに対し、蓬生は常ににや にやしながらやり直しを命じ、ほめるときはつまらなそうな顔になるところだ。 昨日も、 「まあ、素人の見よう見まねやったんが、基本を押さえた初心者くらいにはなったんちゃ う?」 と言われた。 ひどい言われようながらも、たぶんほめ言葉だろうと思いたいのだが、告げる蓬生の顔が あまりに仏頂面で、やはりけなされているのではないかと思えてならない。 とはいえ、辛抱強いところは共通していた。律も未熟な大地の練習にずいぶんと根気強く つきあってくれたものだが、蓬生も、露骨な生あくびをしたりしながらも、帰るわとも言 わず、大地の練習につきあっている。 「いいのかい、本当に」 「何が」 めんどくさそうに蓬生は答える。 「したいことがあるなら、放っていってくれてかまわない」 「別に。横浜の観光もすんだし、ソロコン前の千秋に俺がしてやれることも特にない。芹 沢は芹沢で、何や最近二年生同士仲良うしてるみたいやし」 「…って、ひなちゃんと?」 「そない目ぇ三角にしぃないな」 大地がうろたえたのがうれしいのか、ようやく少し楽しげな顔になって蓬生はくくっと笑 った。 「小日向ちゃんの方にそんな余裕あらへんやろ?…至誠館の子らや。あの丸い子、甘いも ん好きらしいな。ああ見えて芹沢も甘味系は詳しいから、よう盛り上がってる。それに、 目付き悪い……なんて言うたっけ」 「火積?」 「そうそう、火積くん。…彼ともいろいろ話し込んどうの、時々見かける。あの子が次の 至誠館の部長なんちゃうかな。芹沢もたぶんそうなるし、話が合うんかもしれん」 それから改めてにやりと笑う。 「下の子らはみんな仲がいいなあ。ぎすぎすしとうのは、上級生ばっかりや」 「…別に三年生が全員ぎすぎすしているわけじゃないだろう?…俺と君だけだよ」 「確かに」 くっくっと蓬生は喉声で笑い出した。けれど笑いながらちらりと意味ありげに大地を見る。 「せやけど、こんな俺らでもはたから見たら仲良う見えるみたいやで。…昨日、八木沢く んに言われたわ。榊くんと仲良くなったんですね、て」 大地は手にしていた弓で、とん、と自分の肩を叩いた。 「…仲良く、ね」 「微妙やろ」 「……」 「これが小日向ちゃんやったら、あらまあ見た目を額面通りに受け取って、可愛らしなあ、 って頭の一つも撫でたげるとこやけど。……八木沢くんは、勘と頭がいいからな」 「…というと」 「……たとえば」 はっと身構えるよりも、キスの方が早かった。うかうかとヴィオラを手にしたまま話し込 んでしまっていたのでとっさに防げない。…うれしそうに唇をはみ、ついでにと言わんば かりに舌先まで入れてきたので、軽く噛んで追い返す。…片目をすがめたが、文句は言わ ずに蓬生は引き下がった。 「……ナイショでこんなことしてるって、…ばれとうかも、な」 「…だとしたら?」 「別に?…続けるだけや。おもしろいおもちゃに音楽と」 言って、今度はぐいと蓬生は大地にのしかかる。何かがするりと脇腹をかすめていった気 がしたが、のしかかられて押さえ込まれ、あまつさえヴィオラと弓を手に持っている大地 には確認のしようがない。 蓬生は何も気付かない様子で、大地の唇を指先で押さえ、耳朶に口づけを落とし、唇と舌 先で耳殻を愛撫することに熱中している。ねっとりとした生暖かさがもたらす熱は、触れ るだけの口づけよりもはるかに快く、それでいて少しまどろっこしい。大地は必死で声を こらえた。 「…礼儀を教える『遊び』を、な?」 ようやく大地から体を離した蓬生は、口づけで途切れた言葉の続きを語りながら、押さえ るのを止めて離した指先でそっと、開きかけた大地の口唇を撫でる。 「これはかまんとってや?…ヴァイオリンを弾く指やから」 「……」 それを言われると逆らえない。了承の代わりにおとなしく口を閉じると、蓬生はにっこり 笑って、押し当てた自分の指先の上から、大地の唇にそっとキスした。 「ヴァイオリンを弾く手、に弱いな、君。…今度からこれでいこ」 「何が。何を」 「おもちゃは気にせんでええ」 「土岐」 「ほな。…もう一回、弾いて?…それで昼にしよ。もう十一時五十分や」 ほんの一瞬前までのことなど何事もなかったかのようなけろりとした笑顔に翻弄される。 ため息をついてヴィオラを取り上げ、大地はフィレンツェの思い出を奏で始めた。甘く切 ない旋律に、目の前の人物を重ねながら。 ヴィオラを片付ける大地を待つことなく、千秋が呼んでるから先に行くわ、と蓬生は練習 室を出て行った。ため息でそれを見送って、大地はゆっくりとヴィオラと楽譜を片付けは じめた。 忘れ物はないかと見回したとき、床の上に何かが落ちているのが目に入った。落ち着いた ワインレッド色をした小さなもの。 …近寄って拾い上げると、それは手帳だった。生徒手帳だ。星奏のものではなく、平行四 辺形のような形の校章が刻印されている。 「…土岐のか」 先刻、何かが落ちたような気がしたのはたぶんこれだったのだろう。ベストかシャツのポ ケットにでも入れていたものが滑り落ちたのではないだろうか。たぶん持ち主は土岐で間 違いないだろうと思いながらも、念のためページを繰って確認する。 …手帳に挟まれたものに見慣れた顔写真を見つけたとき、大地はふと眉を上げた。 「………へえ」 …かすかに、口角が上がる。 「……それはそれは」 意味ありげな笑みを唇に宿し、手帳を大切にしまいこんで、大地は意気揚々と練習室を引 き上げた。その楽しげな笑顔を目にした者は、残念ながら誰一人いなかった。