往還

「優勝おめでとう」
ぽん、と後ろから背中を叩かれて、大地は振り返った。
予想はしていたが、振り返ったそこに、満面に「皮肉」と書いたような顔をして蓬生が立
っているのを見ると、自然と顔は苦く笑う。
「…ありがとう」
「奇跡やね」
にやにやとチェシャ猫のように蓬生も笑っている。
大地はゆるりと首をかしげた。
「そうかな」
蓬生は眉を上げた。
「優勝は当然やって思っとう?」
「…というか」
大地は今度は首をすくめた。
「ファイナルの時、相手校には何かトラブルというか、動揺があったみたいだからね。全
員が全力を出せたうちの方が有利だろうと思っていた。……それよりもむしろ、柱になる
律不在、ファーストバイオリンは急ごしらえのアンサンブルでセミファイナルを勝ち抜け
たことの方が奇跡的だ」
「……」
蓬生は露骨に顔をしかめた。大地の表情が皮肉ではなく純粋に疑問で彩られているので、
余計に腹立たしいのだろう。
「…何が言いたいん」
とげとげしい蓬生の声を聞いて、大地ははっと我に返った。
慌てて、蓬生の何かを押しとどめようとするかのように、片手を前に突き出す。
「言い方を間違えた。…ごめん。…そうじゃなくて、なんと言えばいいのかな」
言葉の接ぎ穂に困ることはあまりない大地だが、蓬生が相手だと何を言ってもまず言葉の
裏を勘ぐられそうで、どう言えばまっすぐに伝わるかと、迷う。
「…その、…ぶっちゃけた話、今日のファイナルよりもこの間のセミファイナルの方が、
きつかったけど印象的だった。相手がもし神南でなければ、俺たちはあそこまでのパフォ
ーマンスは出せなかったかもしれない。……君には、不本意だろうが」
差し出された手を、蓬生はまじまじと見つめる。元より大地も、素直に手を握り返しても
らえるとは思っていない。…ただ、自分の素直な気持ちを伝えたかった。まっすぐに伝わ
ってほしいと願った。
「神南と戦えて良かった」
大地の願いもむなしく、蓬生は苦々しげに顔をしかめた。
「……俺は、セミファイナルの相手は天音の方がよかったかなと思っとうよ」
大地は穏やかに笑って手を引っ込める。
「…そうか」
「そらそうや」
蓬生はゆるりと腕を組んだ。まるで、とても大切な秘密を話すかのように、人差し指を唇
に当てて、……苦い顔が、ゆらり、笑みに変わる。
「……ほしたら、ファイナルで、全員の、全力の星奏と戦えたわけやろ?」
「……!」
思いがけない言葉だった。いつものように皮肉が返ってくるのだと思っていた。意表を突
かれて、思わず顔がほころんだような気がして、大地は蓬生から目をそらした。
言葉は素直に伝わってほしいと思うのに、気持ちが丸見えになってしまうのは妙に腹立た
しい。
このあまのじゃくな感情はいったい何なのだろう。
蓬生は少し大地の返答を待つそぶりだったが、背けられた表情に何を見たのか、にやりと
笑って先に口を開いた。
「…もっとも、榊くんのヴィオラは十日やそこらではたいして変わらんかったやろうけど」
出てきたのはいつもの彼らしい厳しい指摘で、思わず大地は肩の力を抜いて笑う。
「……ごもっとも、だけど、…手厳しいなあ」
「手厳しいなあ言いながら、なんでそんなにうれしそうなん」
蓬生は人差し指で眼鏡のブリッジを押し上げ、再び渋面を作った。
「常にライバルに忠告と塩を送って技術を向上させようとする土岐の懐の広さに感動して
いるんだよ」
「勘違いも甚だしい」
眉間にしわが刻まれる。
「俺が誰のライバルやって?」
「……」
大地は首をすくめて答えない。
「言うとくけど、俺にとって君は、単にからかいがいのあるおもちゃや」
むすっと指摘されて、大地は視線を蓬生に戻した。
眼鏡越しに、いつも何かに冷めているような瞳をのぞき込む。同じ眼鏡越しでも、律の感
情は手に取るようにわかるのに、蓬生の感情は全く読めなかった。
いっそ、皮肉にまみれたその言葉の方がまだ、彼の本心を捜しやすいとさえ思うほど。
「……君にとっての俺は、やたらつっかかってくる厭な奴。…せやろ?」
大地に勝手な感情を押しつけて、肯定しろと言わんばかりのその言葉はきっと、何かの裏
返し。
「……そうでもない、と言ったら?」
刹那、蓬生は意表を突かれた、という顔をした。
それは本当に一瞬、ずっと注意深く彼の瞳を見つめていた大地でさえ、見逃しそうになっ
たほどの揺らぎ。
今見る彼はもういつもの、…いや、いつも以上に感情を皮肉で覆い固めたつれなさで。
「……聞かんかったことにするわ」
大地は両手を挙げて降参のポーズをとる。
「…了解。…じゃあ、この件はここまでだ」
「せやね」
「それじゃ」
「ああ、待って」
だが、返した背中に蓬生が声をかけてきた。
「まだもう一つ、用事があるんよ」
「…?」
何があるのかと振り返ると、蓬生が顔の高さに携帯を掲げて、にこりと笑った。
「厭な奴でも、袖振り合うも多生の縁、や。……連絡先くらい、交換せえへん?」
まばたきほどのその瞬間、大地は瞠目した。薄く開いた唇は鋭く息を吸い、への字に結ば
れる。
蓬生の表情は変わらない。いっそ、優しく感じるほど、甘く笑んで。
…ややあって、ため息をへの字の隙間から吐き出した大地は、唇の片端をほんの少しだけ
つり上げて笑った。
「…君が望むなら、俺は喜んで」

言葉さえ交わさない、赤外線だけのやりとりだけれど、その往還は今までの二人のどの会
話よりも正直で真摯で濃密だと、…静かな宵闇だけが知っている。