パーソナル・スペース


降水確率は0%だったし、ところにより一時雨とも言っていなかった。


夕立の中を走りながら、大地は心の中で今朝の天気予報のキャスターに悪態をついていた。
行きつけの楽器店で松脂を買って店を出たとき、西の空が変に黒いなとは思ったのだが、
家まではたいした距離じゃないと歩き出したのがまずかった。…たいして歩かないうちに、
ぎょっとするような雷鳴がとどろいたかと思うと、バケツをひっくり返したような雨が降
り出したのだ。
一瞬、元来た店に戻って雨宿りしようかとも思ったが、斜め前の店に気付いて大地はそこ
まで走ることにする。目に入ったのはいつも行き慣れたコンビニだ。あそこなら雨宿りす
るにも時間がつぶしやすいし、場合によってはビニール傘を買ってもいい。
飛び込んだコンビニは、結構混んでいた。同じように雨宿りする人間が多いのだろう。濡
れたままで商品を物色すらしない客も多いが、どこかやる気のなさそうな店員は、特に気
にするでもなかった。
とりあえず、入口付近ではなくてもう少し中に、と歩を進めると、皮肉げな声が笑みを含
んで話しかけてきた。
「…榊くんやん」
ぎょっとして顔を見る。…聞き間違いかとも思ったがさにあらず、陳列棚を隔てた隣の通
路にいたのは土岐だった。
「ここで、何を」
驚いたせいでうっかりと、言わでものことを言ってしまった。案の定、くく、と土岐に笑
われる。
「雨宿りしてんねん。…榊くんもやろ?」
実際はそうなのだが、素直にそう言うのがしゃくで、大地は思わず首を振った。
「いや、…ここなら傘があるかと思ったんだ」
「……ふうん」
土岐は一瞬しらけた顔をしたが、またふわりと笑みを浮かべた。
「…ほな、入れてもらおかな」
「………は?」
何に、とはさすがに言わなかったが、土岐の方で補足が必要かと思ったらしい。
「榊くんが傘買ったら、俺もそこまで入れてってや。…寮と家、そない離れてへんて、前
言うてたやんか」
……。
「思ったよりこの雨、長引きそうな気がしてきたんやけど、ビニール傘はあいにくと趣味
やないし、そもそも旅先で荷物増やすんもいややと思ててん」
大地は額を押さえた。
「…君と相合い傘?……死んでもごめんだね。君みたいな大男と一つの傘じゃ、せっかく
傘を買ってもずぶ濡れになって終わりだろう?」
土岐は唇を尖らせる。
「けちやなあ」
「けちとかそういう問題じゃないだろ」
「せやかて、もし如月くんが相合い傘しようて言うたら、たぶん喜んで傘貸すやろ、君。
…俺と如月くんやったら、五pくらいしか変わらへんで」
「………なぜそこで律を出すんだ」
「…榊くんと一番相合い傘が似合いそうな相手やから」
ふふ、と微笑まれて、大地は肩をすくめ、身を翻した。
「…あれ。…どこ行くん?」
「…何だか頭が痛くなってきたからね。…もう行くよ」
大地はむっつりした顔のまま、入口近くに陳列されていたビニール傘を一本手に取り、レ
ジに向かった。土岐は少し残念そうな顔をしたが、肩を一つすくめて、あまり興味もなさ
そうな文房具の棚を物色するふりを始める。
大地は傘を買って、土岐を振り返った。ぼんやりしたその横顔に目を止め、いらいらとし
たため息を一つついてから、購入済みのシールを貼った傘を手に土岐のところへ戻る。
「……入っていくかい?」
声が不機嫌なのは隠せないが、…それは一応勧誘だった。
「……」
驚いた顔で、土岐はまじまじと大地を見る。
「……何。…気持ち悪いやん。…どないしたん」
「傘に入れてくれと言ってきたのは君だろう。…君が嫌なら、いいよ」
そのまま大地はまた身を翻し、今度こそ、自動ドアから外へ出て行く。土岐は一瞬呆気に
とられたが、ふっと笑ってすぐにその後を追った。
「…貸して」
コンビニの庇の下で傘を開こうとしていた大地から、さらりと土岐は傘を奪った。…いつ
から売られていたのか、微妙にビニール同士がくっついて開きにくい傘を、ぱん、と音を
立てて綺麗に開いて。
「入れてもらうんやから、傘は俺が持つわ。…傘代も、半分だそか?」
「傘代は要らないよ」
「ほな、傘は持つ」
「……好きにすればいい」
ぼそりと言った大地の声に、ほんの少し嬉しそうに笑って、土岐は傘を差し掛けながら歩
き出した。促されるように大地も歩き出す。
身長が似通っているというのは、こんなとき意外と都合がいいものだ。歩幅にもあまり差
がないので、相合い傘にありがちな、歩くペースが上手く合わなくて、おっと、と、たた
らを踏むような羽目には余りならない。
淡々と歩いて商店街を抜ける。そこからは住宅街だ。雨はますます激しくなってきた。白
い飛沫で、道の前方が見づらいほどだ。
「……やまんなあ」
思わず、という調子で土岐がつぶやいたので、大地も応じる。
「ひどい雨だな」
傘を差しているとはいえ、大柄な男子二人でビニール傘一本だ。半身をかばうのがせいぜ
いで、大地の左肩はすでにぐっしょり濡れている。見れば、土岐の右肩も似たようなもの
だった。
土砂降り。…そんな単語が脳裏にちらついたとたん、思い出したことがあって顔をしかめ
る。
「…何」
見られていないと思ったが、偶然土岐がその表情を見ていたらしい。
「何か、気に障ることでも?」
「いや、そうじゃなくて。…その、…聞きたい?」
「聞きたいか聞きたくないかて聞かれたら、聞く、としか言えんなあ、俺の性格上」
その言い方がおかしくて、大地は少し笑った。
「土岐は、英語で土砂降りのことを何て言うか知ってるかい?」
「英語はあまり得意やないんやけどな。heavy rain、とか?」
「得意じゃないって言ってる割に、ちゃっかり正解してるじゃないか。…そっちが一般的
なんだけど、もう一つ、慣用句がある」
「思いつかんけど。…どんな」
「It is raining cats and dogs」
「………」
単語を直訳したらしい土岐が、なんともいえない顔になった。…たぶんさっきの自分も一
瞬こんな顔をしたんだろうなと、大地は少し目をそらした。
無言のまま、しばらく歩いて、…やがて土岐がぽつりと言った。
「…アメリカに行ったら、雨は犬と猫みたいに降る、いうわけやな。…一個勉強になった
わ」
「そりゃよかった」
「…一個勉強になったし、…なあ、俺、一個わかったことがあんねんけど」
「何だい」
大地が何気なく問い返すと、土岐は何故か、困惑しているようにすら見える微妙な表情を
している。
「榊くん、な。…もう、俺には、犬扱いされてもしゃあないって思てるやろ」
「…そっ…」
んなことない、と続ける前に。
「思てるやろ。…今一瞬つまったんが思てる証拠や」
たたみかけられて、答えに窮する。と、土岐はくすくす笑いだした。
「…榊くん、結構、状況に流されやすいやんな」
「勝手に決めつけないでくれないか。俺は別に…」
「ええやん、もう、犬で。俺もええわ、猫で。猿よりはええわ」
言って、土岐は傘を持っていない方の手で濡れた髪をうっとうしそうに少しぬぐう。
「…猿って、何で」
問いかけは形式上だった。
「俺らがあんまりけんかするから、犬と猿扱いされてんねんで、寮では」
さらりともらした土岐の答えを、大地も何となく知っていたから。
「…まあ、言うてるのは至誠館の副部長さんだけで、彼かって俺に面と向かっては言わん
けど。トムジェリ言うた奴もおったけど、大地が猫で俺がねずみなんは似合わへんて訂正
されとった」
「て、なんで俺がやられる方なんだ!」
「やられてばっかりおるからやろ」
「………」
そんなつもりはないのだが、そう見えるのだろうな、とは思う。納得いかない話だが。
会話が途切れた。雨がひどいのと、住宅街へと道が進んできたのとで、人通りがなくなる。
雨の音と、時折通り過ぎる車が水をはねかす音だけが、世界の全てのようだった。
いろんな水音を、まるで交響曲のようだと思いながらぼんやり大地が聞いていると、…ふ
と、土岐がまた口を開いた。
「……なあ。…聞いてもかまへん?」
「何だい」
「……何で俺を、傘に入れてくれたん?」
「…っ」
問われて、答えに窮した。…何故そうしたか、…大地自身、答えを持っていなかったから
だ。
…ちらりと土岐をうかがうと、土岐は前を向いていたが真面目に答えを待つ顔だ。
「………」
コンビニでの会話を思い返し、そのときの自分の感情の動きを改めて客観的にたどる。…
…出てきた答えは、
「…フェアじゃない、と思ったんだ」
「……フェア?」
土岐は怪訝そうな顔をした。
「あのとき、言っただろう。…律なら傘に入れるんだろうって。…土岐の言うとおりだ。
あそこで雨宿りしていたのが律だったら、俺は自分から律を傘に誘っただろう」
「けどそんなん…当たり前やん。君と如月くんは親友なんやし、……俺とは違うやろ。フ
ェアもなんもあらへんやん」
「……そう、…かもしれない、けど」
どう言えばいいのだろう。あの時の心の動きを。…いや、今現在の自分の心を。
「……やっぱり、フェアじゃない、と思う」
この言い方が正しいのかどうかわからない。…でも。
「けんか友達だってさ、……友達の一種だろ」
雨はひどく、やみそうにない。
「あの時はあんな言い方をされてむっとしたけど、…レジへ向かったときふっと、土岐は
もしかして意外と困ってるのかなって思ったんだ。雨は止みそうにないし、コンビニで時
間をつぶすのも限界がある。…ちょうどいい遊び相手が入ってきたと思ったら、さっさと
逃げていく」
どこか、つまらなそうなあの横顔。
「……見捨てるようで、嫌だったんだ」
ぼそぼそと述懐する大地を、土岐は見ない。だがやがて、言いにくいことを告白するとい
う顔でぽつりと言った。
「…せやから、君は嫌やねん」
「……は?」
「…普段、阿呆ほど俺につっかかってくるくせに、…変なとこお人好しで、気が回って」
……調子狂うわ。
うつむいた首筋から髪がこぼれ、うなじがさらりと露わになる。照れと困惑からだろう、
かすかに朱く染まっていた。
……土岐は、東金以外の奴を懐に入れたことはないんだろう。
大地はふと、そう思った。以前に読んだ心理学の本を思い出す。人にはパーソナルスペー
スと呼ばれる距離があって、そこを侵されると不快感を覚える。逆に言えば、距離ごとに
立ち入ることの出来る人間は限られている。
土岐は、家族や恋人が立ち入れる密接距離はもちろん、通常の友達が立ち入れる固体距離
と呼ばれるスペースにさえ、東金以外の友人は入れてこなかったにちがいない。その証拠
に、こうやって傘の中に二人身を寄せていると、土岐は基本的にずっと前を凝視している。
…もちろん、よそ見をしていては歩きにくいという状況もあるのだが、それ以前に、この
近さで相手の顔を見ることに緊張を覚えるのだと思う。……慣れていないのだ。
「そのまま、調子が狂っていてくれるといいんだけどな」
「……はあ?」
土岐は顔を上げた。ちらりと大地を見る。土岐を見ていた大地と目が合うと、慌てて目を
そらしたが。
「その方が、俺がやりやすい」
大地が小さく笑うと、土岐は鼻を鳴らした。
「……なんか、むかつくわ」
いつもの調子が戻った土岐を横目で見ながら、大地は空を仰いだ。
…降水確率0%の空にも大雨が降ったように、絶対にこいつとだけは友達になれないと思
った相手とでも、親友になれることがあるのかもしれない。それがけんかとつく友達であ
っても。
「……いつか、俺のことも懐に入れてくれるといいな」
聞こえないようにぼそぼそと言った言葉は、案の定土岐の耳に届かなかったようだ。
「……は?……なんか言った?」
「いや。何も言ってない。雨の音だろう?」
大地はまっすぐ土岐を見てそう言った。土岐は少し困惑した様子ながら、…今度は、目を
そらさなかった。