霊獣

忍人が堅庭でぼんやり空を眺めていると、背後にふと気配を感じた。
…が、人のものではない。
不審感から振り返ると、アシュヴィンの乗騎の黒麒麟が、じっと忍人を見つめていた。普
段堅庭にはいないはずなのに、と、忍人は少し首をかしげる。……と、黒麒麟はゆっくり
近づいてきて、その少し濡れた温かい鼻面を忍人の腰のあたりにこすりつけ、はむはむと
何か口を動かした。
「…どうした?…主人を捜しているのか?」
……いや。…ちがうな。
「……お前が気にしているのは、これか?」
忍人は破魂刀を鞘の上から撫でて、薄く笑った。
黒麒麟は、少し首をかしげるような仕草を見せた。…そして何事もなかったかのように、
またはむはむと口を動かす。
そのとき、もう一人堅庭に現れた。今話題にしたばかりの、黒麒麟の主人だ。
「…珍しいな」
「…アシュヴィン」
つかつかと近づいてきて、黒麒麟の傍らで足を止める。ぽんぽん、と首筋を撫でてやると、
黒麒麟は口を動かすのをやめて、すらりと首を伸ばした。
「黒麒麟が俺以外の奴になつくことはあまりないんだが」
その言い方が少し拗ねた子供のようで、忍人はそれと気付かれないくらいにそっと表情に
笑みを含ませる。
「なついたわけじゃない。…彼は俺の刀が気になるだけのようだ」
アシュヴィンは目をすがめるようにして忍人の刀を見て、
「……ああ」
と言った。
それから少しあたりを見回して、四阿をあごでさす。
「…座らないか、忍人。…少し、話がしたい」
忍人はかすかに眉を上げたが、拒絶するようなことでもない。彼自身は立ち話でもかまわ
なかったが、おそらく彼が気遣っているのは自分の体調のことなのだろう。無駄な意地を
張ることもない、と、おとなしく彼の誘いに従う。
アシュヴィンはつかつかと先に歩を進めて、さっさと四阿の石の一つに腰を掛けた。黒麒
麟はおとなしく主人についてきて、主人が座った石の隣に足を折り、身を休める。その姿
は馬にも似ていたが、むしろ鹿の方が近いな、と、どうでもいいことを忍人は観察しなが
ら、アシュヴィンの向かいに腰を掛けた。
「…何か?」
「…以前、お前とその刀の話をしたときのことを、覚えているか?」
「……無論」
別に遠い昔の話ではない。ついこの間のようなことだ。
「あのときの俺は、お前の刀が本当はどういうものなのか、わかっていなかった」
忍人はかすかに眉を寄せて、口元だけ笑ってみせた。
「…だが、もし今お前があのときと同じことを俺に聞いたら、俺はまた同じことを言うだ
ろう」
アシュヴィンはまっすぐに忍人を見た。忍人もまっすぐにアシュヴィンを見た。どちらの
顔にも、あまり表情らしいものは浮かんでいない。しんとした、真顔。
「刀は戦いの道具だ。…だが、その刀で救われる味方の命もある」
忍人は一度瞬いたが、…何も答えない。
「もし俺が、その刀を目の前に差し出されて、この刀を使えば俺の寿命と引き替えに仲間
を助けることが出来ると言われれば。…追い詰められた状況下でどうしても仲間を救いた
いと願っていれば。…俺もその刀を手に取っただろう。迷いも後悔もなく」
忍人の表情がやや動いた。眉をしかめる。
「だが君は王だ」
ふん、とアシュヴィンは鼻を鳴らした。
「王は生き残ることもその勤めの一つだと言いたいか?…そうだな、俺がもしも常世の皇
ならばそう考えるべきだろう。国と、国の民のために、混乱は避けねばならない」
だが。…アシュヴィンはそう言って肩をすくめた。
「あいにく、今の俺は皇ではない。あまたいる皇の子の一人に過ぎん。今の俺は、王では
なく将だ」
口元に指を二本当てて。あの明るいいたずらっ子のような、どうにも魅力的な笑顔をさら
りと浮かべる。
「ただの将ならば、自分の命よりも兵の命に対する責任をまず考える。…ちがうか?」
忍人は肩をすくめた。そしてすがめた瞳で笑う。な、とアシュヴィンも笑い返した。
「…忍人。…お前は以前、刀は国の命はつなぎとめるが、人の命は救わない。…そう言っ
たが、本当にそうか?…お前が刀を振るうことで、救われた命は本当にないのか?」
「アシュヴィン」
「ああ、わかっているさ」
忍人に名を呼ばれたアシュヴィンは、彼が何か言う前に遮るように言って手を振った。
「お前の方が正論だ。刀は所詮人の命を取る道具だ。だが、お前は人を殺したいから刀を
とるわけじゃないだろう。…何かを、誰かを守りたくて、…戦いに出るんだろう」
アシュヴィンはふと、…声を落とした。…明るいざっかけない王子様のそぶりがふと、…
威厳を持った王のそれになる。
「…お前の刀に救われた命はある」
紅玉のような瞳がまっすぐに忍人を見る。そらすことを許されないものを感じて、忍人も
その瞳をじっと見つめ返す。まっすぐその瞳を見つめたまま、さっきから疑問に思ってい
たことを口にした。
「………なぜ、今俺にそんなことを」
「…さあ、…なぜかな」
ふと我に返った様子で、アシュヴィンは首をかしげた。
「一人くらい、いいぞ、って言ってやるやつも必要かと思ったからかな」
「……?」
アシュヴィンはあの魅力的な笑顔でに、と笑った。
「…破魂刀を持つ、お前をさ」
組んだ足の上に肘を置いて、やんちゃ小僧のようなほおづえをつく。
「みんなお前に、『もう破魂刀は使うな、刀を持つな』と言うだろう?……だがそれは決
して、破魂刀をふるってきたお前の今までを否定しているわけじゃない。お前は将として
必要な選択をした。俺はそう考える」
言ってから、もっとも?とアシュヴィンは派手な仕草で両手を挙げ、肩をすくめた。
「もうこれだけの大所帯だ。俺を含めて、腕の立つ者も増えた。…今のお前に、破魂刀は
もう必要ない、とは、俺も思うな」
忍人は一瞬目を丸くして、…それからかすかに吹き出した。
「つまりは君も、…もうこれからは使うな、と?」
「端的に言えばそういうことになるか?」
…端的に言わなくてもそういうことではないだろうか。
「…女性の涙は、あまり見て楽しいものでもないしな」
…二ノ姫のことを指しているのだろう。アシュヴィンは少し頬をふくらまして、ほおづえ
をついたままそっぽを向いた。
「…忍人。…俺も、…ずっと身近に死があった」
俺の場合は、お前のようにじわじわと近づいてくるものではなく、ある日突然やってくる
ものだったが、それにしても。
「いつも死はそこにあった。だが、だからこそ、素直に命をくれてやるのはもったいない
じゃないか。たとえそれが誓約だったとしても、あがいて悪いということはないだろう?
使うのをやめて、刀に抗え。じじいになって、やるだけやったと思ってから命をくれてや
ったって、誓約を破ったことにはならない……と」
ふと忍人の瞳を見たアシュヴィンは、そこで言葉を切った。にやりと笑う。
「…これは、俺がえらそうに言うまでもないか」
行儀悪く、忍人の鼻先を指さして、片眼をすがめる。
「お前は元々、そういう考え方の奴だった。…だな?」
「…なぜ、そう思う?」
忍人が静かに問うと、アシュヴィンは笑って、その目さ、と言った。
「普段は静かだが、時々運命なんか鼻で笑い飛ばすと言いたそうな色を見せる。強気で、
負けん気が勝った目だ。……そういう目は、嫌いじゃない。…どこかのおてんば姫と同じ
目だ」
忍人は笑おうとして、…何かまた足元のあたりに気配を感じて見下ろした。
「…ん?」
アシュヴィンも同じ場所を見る。
気付けば、また黒麒麟が首を伸ばして、今度は忍人の足元のあたりで何かをはむそぶりを
している。
「…そういえば、…何を食べているんだ、彼は?…餌の用意を見たことがないが」
忍人が問うと、アシュヴィンは肩をすくめた。
「わからん。…およそ、馬や鹿の食べそうなものは全て並べてみたが、何も食わん。肉食
かと思ったが、そうでもないらしい。……まあ、こいつは霊獣だ。並みの獣のようなもの
は食わんのだろう。霞か雲か、…人の精気か?」
忍人が一瞬真面目にえ、という顔をしたので、アシュヴィンが吹き出した。
「冗談だ。いや、何も食わないのは冗談じゃないが、黒麒麟が人の精気を食らって生きて
いる生き物なら、俺はとうに、もっとやせ衰えているはずだ。…やっぱりお前のことを気
に入ったのさ、こいつは」
に、と悪戯っぽい笑顔を見せて。
「色がおそろいだからな?」
「……色か」
忍人の苦笑を見て、アシュヴィンはまた声を出して笑った。黒麒麟はまだ何か一心にはむ
はむと口を動かしている。忍人はそっと手を伸ばし、その首筋を撫でてみた。黒麒麟は顔
を上げ、じっと忍人を見る。優しい、というのとは違う、深い色の静かな目をしていた。
……何か、誰かに似ているとふと思ったが、…それが誰かは、そのときの忍人にはわから
なかった。