劣情


ふと、弾いている律に触れたい、と思った。肩を叩くとかそういうノーマルな接触ではな
くて、性的な欲求を伴って触れたい、と。
一心に弾く彼は美しい。伏せられた眼差しも、ヴァイオリニストらしく少し変形した、け
れど整った指先も、かすかに髪の間からのぞくうなじも。
弾いているその瞬間に、もしも彼に触れたら、彼はどんな反応をするのだろう。我に返れ
ば必ず叱責されるだろうが、触れられたその瞬間は?
声は上げるのか。上げないのか。何をされたかすぐに気付くのか、それとも気付かないの
か。……その白い貌は白いままなのか、それとも少しは色付くのか。
「………」
目の前で真面目に音楽に没頭している彼に、こんな劣情を抱く自分が許せなくて、大地は
別のことを考えて気を紛らわせようとした。
だが、音楽に近いことを考えていては気分転換できない。副部長としての引き継ぎは終わ
っているからまぎらわせるための事務的な資料はない。今日に限って、気を散らすことが
出来そうな、手のかかる数学の問題集も持っていない。これならどうだろうと英単語帳を
くってはみたものの、焼け石に水で、まぎれるどころか律の音が耳について、演奏風景に
目を向けずにはいられなくて。
「……」
あきらめて律を見る。…じっと見る。…その指先の動き、返す弓の軌跡、かすかに震えて
いるまつげの先。…まぶたがふっと開いて、陶然と虚空を見上げて。
音に、色気が増す。響く。歌う。そのかすかなゆらぎは人の息づかいに似て、とろけるよ
うな。
「……っ!」
今まで聞いたことのない、律の、艶。
大地が息を呑んだそのとき。
「……」
ふっ、と、…弓が止まった。
「……?」
まだ曲の途中だ。何故彼は手を止めたのだろう。何か自分の演奏が気に入らなかったのか、
それとも。
「……」
律はぐっと目を閉じた。頬がかすかに上気している。…唇から吐息。……吐いて。………
吸って。
「……大地」
名を、呼ばれた。
「…え?」
予想していなくて、大地の返事は少しぽかんとしたものになった。
「…何?」
「……」
答える大地に、律は無言だ。呼びはしたものの、何をどう言えばいいのかわからない、…
そんな風情だ。
その戸惑いにはっとして、もしやと思う。大地はなるべく軽く、さりげなく聞こえるよう
に言った。
「ごめん、じろじろ見て。…気が散ったかな」
「……違う」
言いかけて、…律は首を振り、
「…いや、…違わないんだが、…その」
口ごもった。大地は気まずく笑う。
「ごめんよ。…見過ぎだな、俺は」
「いや。…ヴァイオリニストが見られているから演奏に集中できないというのは言い訳に
ならない。演奏は、見て、聞いてもらうものだ。だから大地は悪くない」
「……けど」
いいや、いいんだ。大地は悪くない。
もう一度念を押して首を振った律は、唇を噛みしめている。大地よりもむしろ、集中でき
ない自分が許せないと言いたげだ。
「コンクールも大舞台も何度も経験した。多数の審査員の前でたった一人で弾いたことも
ある。どんな時でも、こんな風に演奏が乱れたりはしなかった。…今日の俺はどうかして
いる」
「…乱れて、いたかい?」
「気付かなかったのか」
責めるように言われて、大地は目を伏せた。
…気付かなかった。…自分の劣情を押し殺さねばという気持ちと、律の演奏に陶然と酔い
たい気持ちの間で、ふらふらと揺れていたから。
「…すまない」
「…いや」
律ははっとした顔になった。
「…俺こそ、すまない。大地を責めたつもりはない。……大地を、責めたくなんかない」
苛立つ声だった。
「…律?」
「…本当に、今日の俺はどうかしている」
律は机の上にヴァイオリンと弓を置き、片手で自分の額を押さえた。
「…律」
「目を閉じているのに、大地の視線を感じたんだ。大地は単語帳のページをめくっていて、
俺の方なんか見てもいないのに、…その単語帳のページをめくる指先が、俺に触れている
錯覚をする。…単語帳を一ページ繰るごとに、その指が、節が、…俺に触れるような気が
して、…っ」
一気に吐き出して、律は真っ赤になる。
「……何を、……言っているんだ、俺は。……すまない、変なことを言った。忘れてくれ」
見開いている大地の目を見て、律はいたたまれない顔になった。泣き出しそうにも見える
その目が、声が、呆然としていた大地を我に返らせる。
「…律」
腕を伸ばすと、律はびくりと震えた。かまわず抱き寄せる。
「…大地っ」
名を呼ぶ声は、小さくはあったけれど悲鳴に似ていた。包み込むように大地は抱きしめる
腕の力を強くした。
「…律は悪くない。…悪くないんだよ。…悪いのは俺だ、ごめん」
「…大地…?」
呆けたような、律の声。
「…何を、言ってる。…大地こそ、何も悪くなんかない。ただここにいただけだ」
「…ああ。ここにいて、律の演奏を聴いてた。…だけどきっと、俺の感情の邪さは律に伝
わってしまったんだ」
「……よこしま…?」
「…」
大地は一瞬ぐっと唇を噛んだ。告白するには勇気が必要だった。だが大地が告白しなけれ
ば、律はずっと自分を責め続けるだろう。…だから。
「…俺は、…演奏している律に、触れたいって思ってしまった」
「……」
「演奏している律が、あんまり綺麗で、どきどきして、…触れたかった」
「……大地」
「そんな感情にさらされていたら、律の気が散って当然だ。だから律は悪くない」
「でも大地」
律は泣き笑いのような顔で抗弁した。
「俺は、触れられたいと思ったんだ…」
「……っ」
ただ包まれるだけだった腕を自分から動かし、律は大地の身体をぎゅっと抱いた。
「触れてもらって、安心した。…気持ちがすっと落ち着いた。…大地が悪いんじゃない。
俺だって、やっぱり悪いんだ。……おまけに」
小さく喉で笑って。
「先刻の演奏、明らかに途中でピッチは乱れたのに、俺はそれを悪いとは思わなかった。
…むしろ、面白いゆらぎだと」
そう言われて気付いた。律が言っていた「演奏が乱れた」とはあの瞬間の音のことだった
のかと。
「…あのゆらぎのことなら、俺は乱れたとは感じなかった。とろけるような色気があって、
どきっとしたよ。すごく、…すごく良かった」
大地の言葉の真摯さを、律は眼鏡の奥の瞳を細めることで受け止めた。小さく息を吸って、
…吐いて、…律はそっと名残惜しげに、けれどきっぱりと、大地から身体を放した。
「…もう一度、弾いてみる」
「……俺がここにいてもいいかい?」
「もちろん」
即答してくれる彼にうなずいて、…それでも大地は数歩下がった。あまり間近で見てはや
はり律の気が散るだろう。そんな大地の姿に律は目を伏せて笑う。ありがとう、と、…言
葉のない呟きを唇がもらす。
「…先刻みたいな色を、もう一度聴きたい」
「やってみよう。…今なら、その色に戸惑わずに弾ける気がするから」
微笑む眼差しの優しさと強さ。…そして、大地の些細な劣情などあっさりと吹き飛ばす、
張りのある美しい音。艶。
…大地は笑って、美しい旋律のその先を追った。