理由

「…勝手にしろ!」
叫ぶ声が聞こえて、ばん!と扉が閉まる。ちょうど階段を上がり終えたところだった大地
は、その勢いに思わず足を止めた。足音高くこちらに向かってきたのは響也で、視界に入
った大地を剣呑な目で睨み付ける。
「またあんたか」
…また、とは。
「しょっちゅう寮に入り浸って、気楽なもんだな」
言ってから、自分でもはっとしたようだ。大地に触れないように、けれど押しのけるよう
にして階段を下り、すぐにその姿は見えなくなった。
「……」
ため息一つこぼして、大地はたった今たたきつけるように閉められたばかりの扉をそっと
ノックする。
「…響也?」
明らかにいぶかっている中からの声。大地はかすかに笑みを含んだ声で答える。
「…俺だよ」
がたん、と慌てて椅子を引く音がして、扉が開いた。
「大地…」
どこか居心地悪そうな律に、大地は穏やかに笑いかけた。
「ちょっと勉強に飽きてさ。気分転換させてもらおうと思って遊びに来たんだけど。…入
っていいかな?」
「…ああ、もちろん」
「ありがとう。ここに来たら律がいるってことに甘えてちゃいけないとは思うんだけどね」
大地のその言葉に、律はなにがしか気付くところがあったようだ。…かすかに顔をしかめ
た。
「…響也に会ったか?」
「すれ違ったよ」
「何か言ってたか?」
「いや、特には」
ふ、と律が眉を寄せるようにして笑う。
「嘘だな」
さらりと断言されて、大地は思わず口元を押さえ、目をそらした。嘘をつくのは得意な方
だと思っていたが、さすがにわざとらしかっただろうか。
「本当に、たいしたことを話したわけじゃない。ただ、しょっちゅう寮に入り浸って、と
からかわれただけだ。図星を指されて、ちょっと気まずかったからごまかしたかっただけ
だよ」
律は、額と眼鏡のブリッジとを押さえてうつむいた。…すまない、と一言謝罪をこぼす。
「他意はないんだ。さっき俺と少し口げんかしたから、むしゃくしゃしてお前に八つ当た
りしたんだろう。迷惑をかけた」
「気にしてないよ。俺だって、思い当たるところがあるから気まずいわけだしね。…それ
より、深刻な喧嘩じゃないよな?」
「ああ、たいしたことじゃない。…秋の連休に実家に帰ろうと誘われて、めんどくさいか
らいいと言ったら怒られただけだ」
大地は少し困惑して、真顔の律をのぞき込んだ。
「…喧嘩するほどのことじゃない気がするけど、…本当にそれが喧嘩の原因?」
「ああ。…いつものことだ。俺の言い方はあいつの気に障るらしい。思ったまんま口にす
ると、大概途中からあんなふうに響也がいらいらし始める」
…うん、なんとなく状況は見える。大地はうなずきたいのをこらえた。
「…よく喧嘩した?響也と」
「子供の頃から、しょっちゅう。…俺も昔から融通の利かない方だったし、響也も言い出
すと聞かないから」
自分で自分を融通が利かないと評したからだろうか、律は苦笑している。
「…あんまり馬鹿馬鹿しくて、今でも覚えている喧嘩がある。…聞きたいか?」
「聞きたい」
大地は許可を得るように首をかしげてから、律がうなずくのを待って、ゆっくりとベッド
に腰を下ろした。律は勉強机に背を向けて、その天板に後ろ手をつく。
「まだ俺も響也も小学校に入ってなかった頃の話だ。…どの音が一番好きかで喧嘩した」
「…は?」
意味がわからない。
「どの音が?曲がじゃなく?」
「曲じゃない。和音でもない。単音でどの音が好きかという話だ。俺がA♭が好きだと
言ったら、あいつがB♭の方がいいと言い張ったんだ。最初は他愛ない言い争いだった
んだが、お互い意地の張り合いみたいになってきて譲らないものだから、最後はとっくみ
あいの喧嘩になって、慌てた小日向がうちのじいさんを連れてすっとんできた。結局、二
人ともげんこを二つずつくらって喧嘩終了」
……うーむ。
大地は頬をぽりぽりとかいた。
「そもそも音に優劣…じゃないな、好き嫌いか。好き嫌いがあるというのもよくわからな
いけど、それで喧嘩になるのはもっとわからない。好きな音は人それぞれ、ってことで、
お互い納得できなかったのか?」
「まあ、子供だったし」
少し恥ずかしそうに笑ってから、いや、ちがうな、と律は首を振った。
「あのときも、後で冷静になったらそう思ったんだ。俺と響也の好きな音が違っていても
別にいいじゃないかって。…でも喧嘩の最中は、自分の好きな音を響也に否定されたこと
がただただ悔しくて、後に引けなかった」
律はふと大地の視線から顔を背けた。
「…俺は昔から、弟に劣等感を持っていたから」
「…律が!?」
思わず大きな声を出してしまって、大地は慌てて口に手でふたをする。律が大地に向き直
った。淋しそうな笑顔はどこか自嘲を含んでいる。
「そんなに驚くことか?」
「…」
言っていいのかどうか一瞬ためらって、…それでもやはり大地は口にした。
「…むしろ、劣等感を抱くなら、響也が律にだろうと思ってたよ」
「……」
律はゆるゆると首を横に振る。
「…響也は、俺が努力して身につけるものを感覚ですっと呑み込んでしまう。俺の得たい
音を、意識することなくさらりと表現する。それがうらやましくて、妬ましくて」
ふっと声が途切れた。大地はベッドに座ったまま律を見上げる。視線に応えるように、律
は大地を見返した。もう目をそらさない。
「軽蔑するか?」
「…なんで?」
大地はゆっくりと腕を組んだ。腑に落ちていくある感情を、心の底で受け止めるように。
「むしろうれしいよ、俺は。謎だったことが一つわかった」
律の瞳にいぶかしさが宿り、唇がゆっくり開く。…その声で問われるよりも早く、大地は
微笑みながら説明を始めた。
「律は、俺が全くの素人としてヴィオラを始めたとき、どんなに覚えが悪くてもあきらめ
ずにつきあってくれただろう?」
ありがたく思いながらも、不思議だった。
「律ほど弾ける奴なら、俺のつたなさに、あきれたりいらいらするのが普通だろう。教え
るのを投げ出されても仕方ないくらいだった。…でも律は一度も投げ出したりしなかった。
根気よく最後までつきあってくれた」
それは、律が知っていたからだと、…今わかった。
「努力する大切さを誰よりも知っていたから。…努力すれば結果はついてくると信じてい
たから、…なんだろう?」
大地の言葉を聞いた律は、どこかぽかんとした顔をしている。その顔で、
「…そう、だな」
気が抜けたようにつぶやいた。
「何だよ、今気付いたって顔して」
「今気付いた」
大地のからかう声にオウム返しに答えて、少し照れたように目を伏せる。
「俺が大地のヴィオラの練習につきあっているとき、音楽科の同級生にこっそり耳打ちさ
れたことがある。…つきあうだけ無駄だ、投げ出すに決まってる」
初めて聞く話で、大地は思わず身を乗り出した。
「だが、俺はそうは思わなかった。妙な確信すらあった。大地には迷いがない。ぶれがな
い。目指すべき音を知ってる、その音に向かって努力できる人間だと」
ああ、そうだ。…俺は知ってた。律の音を。天に昇るようなあの音色を。目指すべきはあ
の音だと。
「律にもそんな音があった?」
「…そうだな、目指すものはあった。競い合う相手がいた」
だが、それを見失ったとき、俺は故郷を離れることを選んだ。だから、故郷にあまり執着
がない。
律は静かにつぶやいた。
「だから、帰らない?」
「ああ」
「……いいのか?」
「もちろん、祖父母に顔を見せなければとは思う。だが、それは冬になってからでいい。
…お前も、秋が深まれば勉強で忙しくなってしまうだろう?」
「……え?」
そこで自分に話が降ってくるとは思わなかった。大地は軽く目を見開く。律が少しうつむ
いた。うなじがほんのり赤くなる。
「…でも今はまだ、こうして共に過ごす時間がある。…お前に迷惑がかからない間は、少
しでも一緒にいたい」
……っ。
「まさか、それで、…まさかお前」
上擦る声も気恥ずかしい。しどろもどろの自分をなんとか抑制しようと思うのだが、どう
にもならない。大地はほころびそうになる口元を大きな手で隠すのがやっとだった。
「…まさかそんな理由を、響也に説明できないだろう?」
律はうなずく代わりに、静かに言った。
大地は、自分を見た響也の剣呑な目を思い出す。…もしかしたらあの目は、薄々律が帰ら
ない理由を気付いての表情だったのだろうか。…いやそれよりも。
「…律。…本当に?」
繰り返す念を押すと、耳まで赤くしながら、律はそれでも大地の目を見てそっと笑う。唇
に指を当て、響也には内緒に、と言うかのように、しー、とささやく仕草さえ愛おしい。
大地はベッドから立ち上がり、手を伸ばす。
律はじっとして逃げない。
触れる。腕を取り、引き寄せて、抱きすくめる。
…ひたりと。
温もりを腕の中に閉じこめて、大地は強く心に誓った。

たとえ道は離れても。…きっと君を離さない。