竜灯


陸に背を向け、アシュヴィンはじっと夜の海を見ていた。
闇の中、ちらちらと動くもの。…水平線に、きらめく灯。
漁り火ではない。というのは、距離からして、舟に灯している灯にしては大きすぎるから
だ。
無言でアシュヴィンはその灯を見つめ続けている。磯の大岩の上にただ一人、佇んでいる。
静寂を破ったのは、足音だった。…非常にかすかだが、アシュヴィンに向かって近づいて
きている。
アシュヴィンは一応警戒しかけて、すぐにその警戒を解いた。近づいてくるのが誰なのか
わかったからだ。
足音はアシュヴィンの斜め後ろあたりで止まり、静かな声が風のように流れ出す。
「竜灯だな」
「……りゅうとう?」
振り返らず、だが、オウム返しに言葉を繰り返すと、背後の青年は一歩踏み出し、その濃
紺の衣をアシュヴィンの傍らでひるがえした。
「ああ。…神に捧げられた灯だ」
「……初めて聞く名だ」
「土地が変われば、名も変わるのだろう。…サザキは不知火と呼んでいた」
「…しらぬい」
「彼の土地ではそう呼ぶそうだ。俺は、四国に渡るときに郷の漁師から聞いた。あれは海
に住むものが龍神を崇めて灯す灯だから、決して近づいてはならない、とも」
「……神のための灯か」
アシュヴィンは笑った。……否、嗤った。…暗い嗤いだった。
「…中つ国の民は、のどかなことだ」
「………」
忍人はその言葉に沈黙で答えた。
「…常世では、ああいう遠くでまたたく灯を鬼火と呼び、死者が灯す火だと恐れる。……
死者は人恋しくて、時々ああして火を灯して、生者を呼ぶのだと」
惹かれてゆけば、命を落とす。
…アシュヴィンはさらりと言った。
「……剣呑な火だな」
「剣呑な火だ」
眉をひそめてつぶやく忍人に応じて重々しくうなずいたアシュヴィンは、しかし、どこか
うっとりとした目をしていた。
「だが美しい」
「……」
「…あの火を灯しているのは海のものではなく、俺がむざむざと死なせた俺の兵達なんだ。
…俺を呼んでいる」
「ちがう」
忍人はきっぱりと言った。
「目を覚ませ、アシュヴィン」
アシュヴィンはじろりと忍人を見た。……その瞳は濁っていると、自分でも自覚があった。
「……何から目を覚ませと」
「妄想からだ。陶酔からだ。…死者は生者に何も出来ない。君はただ罰せられたいだけな
んだ。罰せられて楽になりたいだけなんだ。…だが、死者は君を罰してはくれない」
「……っ!」
見開いたアシュヴィンの瞳に映る忍人の顔は、白く冷静で、…そして、自分で言った言葉
に自分で傷ついているように見えた。
「……俺たちは逃げられない。…逃げてはいけない」
忍人は遠い目をして竜灯を見た。
「あの火は、神のための灯だ。どんなに願っても、俺たちを楽な場所へ連れ去ってはくれ
ない」
逃げられないなら、悔いることのないよう務めるしかない。
「恨まれても憎まれても、…兵達が易々と死ぬことなどないよう鍛え上げ、彼らを必要以
上に危険な目にさらすことのないよう心を砕く」
「それでも命は失われる」
「ああ。戦が続く限りは失われる。…だから、一刻も早く、こんな戦いを終わらせる」
そのためになら俺は、どんなことでも出来る。…何でもする。
忍人はきっぱりとアシュヴィンを見た。
「君もそうだろう?」
その迷いのない瞳が、アシュヴィンの心の中のどろりとしたものを一閃した。
「……俺が今まで戦ってきた常世の軍の中で、君の兵が一番鍛え上げられた動きをしてい
た。乱戦になっても戸惑いはしなかった。……それは君が、彼らがむざと命を落とすこと
のないよう、鍛え上げていたからだ」
だから俺は、君を信じていいと思った。君という将を、信じられると思った。
「……俺の信を、揺るがせないでくれ。死者の声をこの世に探すな。死者の声は、ただ黄
泉の国にのみある。ここにはない」
「………ああ。…そうだな」
二ノ姫は思考が柔軟だが、忍人は恐らく、こんな風に常世と共闘することになるとは夢に
も思っていなかっただろう。にも関わらず、感情的にならずに、冷静にアシュヴィンの将
としての器を見極めている。
自らが尊敬するに値する将に、将として認められるうれしさに、アシュヴィンの心はじわ
り熱くなった。もう一度、将としての自分を信じていいと、…そう思えた。
アシュヴィンの感情は顔に表れたのだろうか。…忍人が穏やかに瞳をすがめた。アシュヴ
ィンもさっぱりと微笑み返す。…憑き物が落ちたような心地がした。
「思いが晴れたか」
「…ああ」
「……ならば、よかった」
「………ああ」
帰る。
アシュヴィンは静かに言った。
「神のための灯は、もう存分に見た。…あの灯はただ見えるだけで、道の目当てにすらな
りはしない。……俺に今必要なのはあの灯ではない」
言って、アシュヴィンが見上げた視線の先。きらりと輝いている灯火は、天鳥船の中に住
む「人」が「人」のために灯す火だ。
その暖かな光が、愛おしい。…今度こそ、迂闊なことはしない。守り抜いてみせる。
「俺に今必要なのは、人の灯だ」
言って、アシュヴィンはどこか不遜に笑った。


赤く輝く戦いの星が、静かに夜空に瞬いていた。