再会

桜が散っている。
「まあ、女王陛下、ごらんくださいませ。…こんな部屋の中にまで桜の花びらが」
采女の華やかな声に、千尋は静かにうなずいた。
「きれいね。…でも今日はずいぶん風が強いようね」
「ええ。せっかくの名残の桜も、今日で散ってしまいますでしょう」
「……そう」
千尋は窓の外を見た。空はぼんやりとかすみがかかって白い。今は本当に、橿原の春の盛
り。
山のように積まれていた竹簡も、ようやく手元からなくなった。これならば昼からは少し
時間がとれそうだ。千尋がゆっくりとのびをする。そのとき、
「よろしいですか」
部屋の外から声がかかった。
「これは、吉備将軍」
采女が膝を折る。入ってきたのは布都彦だった。あの戦いの後、彼は将軍位を受けた。今
は出身氏族の名を取って、吉備将軍と呼ばれている。
「近衛の兵に一名欠員が出ましたので、候補を何名かあげました」
「あなたが決めてくれていいのに、布都彦」
千尋が苦笑する。
「いいえ、ぜひ陛下にご覧いただいてお決めいただきたく。いずれ劣らぬ武芸の持ち主」
「ではなおのこと、私には決めづらいわ」
「…さようでしょうか」
立派な将軍殿が、少ししょぼんとしてしまった。飼い主に叱られた子犬のようだ。千尋は
くすくすと苦笑をこぼしながら、
「お願いするわ、布都彦。あなたが決めて。あなたを信頼しています」
命じた。
「はい。陛下の信頼に応えられるようにいたします」
布都彦は直立不動になって答え、きびすを返した。その背中に、千尋は呼びかける。
「ああ、待って」
「…何か?」
「あなたは、宮から外に出ることもしばしばあるでしょう。…このあたりで、まだこれか
ら桜がきれいなところを、どこか知らない?」
「それでしたら」
布都彦は笑顔になった。
「三輪山の奥なら、まだこれから見頃かと。先日麓に参りましたらちょうどつぼみがほこ
ろびかけておりました。あれはもう咲き散った頃ですが、山の上の方なら今がちょうどい
い頃でしょう」
「御幸をなさいますか、陛下?」
傍らに静かに控えていた采女が、声をかける。
「そうね。…でもあまり大仰にはしたくないし。那岐に供を頼むわ」
「陛下、もしよろしければ、私も」
布都彦が礼儀正しく言ったが、…ごめんね、と思いつつ千尋は首を横に振る。
「…陛下」
子犬の尻尾がまたたれた。
「あなたは今、新兵たちも入って忙しいはず。手間を取らせたくないの。気持ちはうれし
いわ、ありがとう」
「…はい」
しょぼんとうなだれて、布都彦が出て行く。采女が、陛下、と苦笑しながらも、目で軽く
叱るまねをして見せた。
「将軍ががっかりなさいましたわ」
「でも布都彦に頼むと、兵を一隊まるまる連れてきかねないもの。大仰にしたくないのよ」
そのお気持ちはわからないでもありませんが、と、また采女が笑う。
「静かに桜が見たいの。…それだけ。…半日で帰るわ」
「……わかりました。では、那岐様を呼びにやらせましょう」

「………僕は、三輪山まで歩くなんて、内心ごめんなんだけど」
ぶつくさ言いながらも、那岐は千尋のそばを歩いている。
「悪かったと思ってるわ。…でも、誰も連れていかないといったら外に出してもらえない
もの。一人で桜が見たいだけなのよ」
「じゃあ、千尋が桜を見ている間、僕は何をしているわけ?」
「好きな昼寝が思う存分できるわよ」
なんなんだそれは、と言いながらも、もう帰ると言わないのは、思う存分昼寝、という言
葉がそれなりに魅力的だったからだろう。
鳥が鳴いている。あの鳥は何の鳥だろう。この世界にも異世界の橿原にも、同じ鳥が飛ぶ
のだろうか。
「…千尋はすっかり女王様が板についたね」
「…そうね、5年もやっていれば」
心の中で指折り数えて、5年か、とふと思う。
……私は、初めて出会ったときのあの人の年齢を追い越した。
思い出すと、まだ胸が痛む。今でもまだ、夜ごと夢に見る、夜空のような、夜の海のよう
な、静かに厳しく強い人。
今頃どうしているだろう。千尋に刀を捨てるよう言われて、彼は千尋の前から姿を消した。
戦いの場で役に立てないのなら宮に仕えることはできないと、岩長姫の元からも去り、自
らの所領の差配をして過ごしていると聞く。
彼から刀を取り上げて本当によかったのか、今でも時々迷うことがある。もし刀を取り上
げずにいたら、彼は今、自分の傍らにいてくれたのではないか。女王として命令しなけれ
ば、一人の少女として刀を使わないでほしいと願えば、彼は命を削ることもなく、生きて
自分のそばにいてくれたのではないかと。
だが、これでよかったのだと、いつも思い直すことにしている。自分の考えは、あくまで
甘い予想に過ぎない。それよりも、彼が命を削るのを、すぐ近くでただ手をこまねいて見
ているより、遠く離れることになっても確かに生きてくれているほうがどれだけいいか。
道は、三輪山への登りにさしかかった。
「……」
ふと、那岐が何かに耳を澄ませる。
「……なあに、どうしたの?」
「気配を探しているんだよ。これでも一応護衛なんだから。千尋に害をなすものがいたら
まずいだろ」
「誰もいないわよ」
人気はない。通る道々民たちを見たが、みな春の畑仕事で忙しそうにしていた。
「女王様はのんきでいいけど、護衛はいろいろ気を配るものなんだ」
「…そうね、どうもありがとう」
話しながら、那岐がぴくりと肩をふるわせたのがわかって、千尋も少し真剣になる。
「…誰か、いたの?」
「………、……いや」
ほう、と那岐は肩の力を抜いた。
「……大丈夫だと思う。……僕はここにいるよ」
「…え?」
突然、那岐が道の傍らの大きな楠の根方にごろりと腰を下ろしたので、千尋はあわてた。
「どうしたの?」
「これ以上山道を行くなんてごめんだよ。…どのみち、一人で桜を見たいんだろう?とり
あえず今のところ山道に人の気配はないし、ここまでは一本道だった。誰か来るようなら
そっちにいくよ」
じゃあ、と目を閉じられてしまっては、それ以上何も言えない。
「じゃあ、行くけど、…那岐も気をつけてね」
「それはこっちの台詞」
ひらひらと手を振る。目を閉じているのだから見えないだろうと思いつつも、千尋も手を
振り返し、そのまま山を登っていった。
しばらく行くと、不意に視界が開けた。
「……わあ…!」
声を上げずにはいられなかった。
満開の山桜だ。豊葦原に戻って6年がたつが、いつもあまり桜を愛でる余裕がなかった。
こんな見事な桜は初めて見る。
「きれい…!」
我ながら芸のない感嘆詞しかでてこないものだとも思うが、他に言葉がないのだから仕方
がない。
心を浮き立たせながら桜の園に足を踏み入れた千尋は、その開けた場所の真ん中で空を見
つめて立つ人物を見てぎょっとなった。
………人がいる!?
だが那岐は、大丈夫だと言ったではないか。いや、正確には大丈夫だと思うと言っただけ
だが、それでも、大丈夫そうだから自分を一人で行かせたのではなかったか?
今は弓も持っていない。護身用の頼りない短剣が一つだけ。
…あの人がこんな私を見たらどう思うだろう。
……これだから君はと、また怒ってくれるだろうか。
その人物も、千尋に気づいたようだ。人の気配にゆるりと首をめぐらして、…ぎょっとな
るのが遠くからでもわかった。
立ちすくむ千尋に向かって、その人物は足早に近づいてくる。律動的な歩き方。
…その歩き方を知っている。
「………!」
千尋は思わず、両手で口を押さえた。
風に揺れる夜空色の髪、見開かれた、夜の海の色をした瞳。夜の化身のような漆黒の姿。
「…………陛下!?……一人で…!」
忍人は言いかけた言葉を飲み込み、千尋の前に膝を突き、頭を垂れた。
きっと、一人でどうしてこんなところに、とか、危険を考えろ、とか、言いたいに違いな
い。それでも、今の自分はそれを言う立場ではないと、言葉を飲み込んで臣下の礼をとっ
たのだ。
それがわかるから、千尋は涙が出そうになった。泣きたいくらいうれしくて、泣いてしま
いそうなほどつらかった。
彼はもう、千尋を二ノ姫とは呼ばない。だから、千尋も彼を忍人さんとは呼べない。
「……葛城殿。…息災そうで、何よりです」
わざとらしいほど儀式張った声をかけると、忍人の肩もびくりと震えた。何も言わず、た
だ、さらに頭を低くする。
「……どうか、顔を上げて立ってください」
「いえ」
「いいえ、どうか。…少し話をしましょう。…そのままでは話しづらい」
「……」
忍人は逡巡の後、ゆっくりと立ち上がった。そして、少しあたりを見回す。
「……少し降りたところに那岐がいるわ。昼寝をすると言って、そこにとどまってしまっ
たの。…私も、一人で桜を見たい気分だったから」
「……そうでしたか」
思えば、那岐はあの時点で既に、忍人がいることに気づいたのだろう。だからわざと、つ
いてこなかったのだ。…話をさせてくれるために。
「お一人での御幸かと思って肝が冷えました」
「久しぶりに怒ってくれてもよかったのに」
まさか、と忍人は目を伏せる。そのまま少し会話がとぎれる。待っていても忍人が口を開
きそうにないので、また千尋から話を始めた。
「……あなたは、どうしてここに?」
「このふもと近くに、所領があります。時折様子を見に行くのですが、今日はあまりにい
い日和なので桜でも見て帰ろうかと」
そこで言葉を切って、ようやく彼はまっすぐに千尋を見た。
「…よもや、…お会いできるとは思いませんでした」
少しかすれたその声に、ほんのわずかでも喜びの響きがないかと、必死で千尋は耳を澄ま
す。だが、節制がきいた忍人の声からは、何も伝わってこない。
「……では、私はこれで」
そのまま忍人はあっさりと会話を打ち切り、その場を去ろうとした。
「…急いでいるの?」
「…いえ、さほどは。…ですが、お一人で桜を見るのに、私がいてはお気が散りましょう」
冷静で正当な言い分に、引き留める言葉が続かない。だが、千尋は精一杯の勇気を振り絞
った。
「…待って、…行ってしまう前に一つだけ教えて。………私は、…間違っていた?」
何を、とはあえて言わない。千尋は息を詰めて、忍人の返事を待つ。
私はあなたから刀を取り上げた。あなたから戦を取り上げた。…ひどいことをしたとは思
う。あなたにとって、私のしたことは間違いだった?
忍人の瞳が、霞がかかったように焦点がぼやけた。
きっと彼が思い出しているのは、あの星空。二人きりで話したあの夜のこと。私はあのと
き、必死で、…ただ必死で。あなたにこれ以上戦ってほしくないとしか考えていなかった。
戦わないあなたが私の元を去ってしまうとは、思いもしないで。
長い逡巡だった気もした。…が、一瞬のような気もした。
指が白くなるほどきつく握りしめられた千尋の手に、そっと忍人は何かで触れた。
「……?」
それは、美しい一枝の桜だった。
「……」
千尋がその美しさに見とれていると、静かに忍人は語り始めた。
「………正直、あのときはお恨み申し上げました。…戦うことでしか、私はあなたの助け
となれない。それなのに、何故私からそれを取り上げてしまわれるのか、と」
………ですが。
彼は、戦の時にあまり見せたことのない、穏やかな表情を千尋に向けた。
「こうしてゆるゆると養生をして、あなたの御代を見ていると、……心が凪いできました。
……あなたの御代を生きることができて、よかった。あなたは本当に立派な女王となられ
た」
かくんと、肩の力が抜けた。気を張っていないと、その場にずるずる座り込んでしまいそ
うだ。肩だけでなく、体中から力が抜けている。足も、指も、手も。
そのゆるんだ千尋の手に、忍人はあの桜の枝を握らせる。…かすかに指が触れて、……た
だそれだけで、千尋の心はゆらめいた。鼓動がはねる。
どうしてこんなに、…この人が好きなのか。
「……それでは、…御前を失礼いたします、陛下」
深く一礼をして、忍人は数歩山道を下りかけ、…ふと振り返った。
「…私の伯父は」
「……?」
唐突な語り出しに、千尋は少しきょとんとする。
「葛城の族の長をしておりましたが、少し老いてまいりました。子がないこともあって、
先般、私に長の座を譲ると言い出しました」
まだ一族全員の了承を得られたわけではありませんが、一族の中で伯父の言葉は絶対です
ので、おそらくこのまま決まるでしょう。
「…いずれ、宮へもご挨拶にまいります。また、その後も宮にあがることもありましょう。
…以前とは違う形で、またあなたのお役に立てればと、…心から思います。………二ノ姫」
「………!」
では、と、つぶやいて、彼は今度こそ背を向け、山道を下っていった。
張っていた気がかくんと抜けて、千尋はぺたんとその場に座り込んだ。
せめて忍人の前では泣くまいと、こらえていた涙が一気にあふれ出す。
ずるい。最後に二ノ姫と呼ぶなんて。
「……おしひと、さん」
私は名前も呼べなかった。呼びたかったのに。
「おしひとさん」
がんばって我慢した。あなたに立派な女王だと言ってほしくて、わざと冷静に話したつも
りだった。…ちゃんと成功していた?それともあなたにはお見通しだった?だから最後に
二ノ姫と呼んだの?
……それとも、あなたも私をそう呼びたかったの?千尋、と名前を呼ぶことはできなくて
も、せめて、陛下でない私に話しているのだと、伝えてくれようとしたの?
「……おしひとさん」
唇からこぼれるのは、ただあの人の名前。やわらかな薄桃色の桜の花に目をあてて、千尋
は泣いた。涙を、桜が受け止めてくれる。
いずれ宮にあがる。
忍人はそう言っていた。
では彼が、武人としてではなく官人として、千尋を支えてくれる日が、いつか来るかもし
れないのだ。
あの頃のように、近くにいることはきっとできないのだろう。…でも今よりはたぶん、も
っと近くに、忍人がいてくれる。
…そう思うだけで、うれしくて、胸が詰まる。
「………!」
桜の園に一人、うずくまる少女に、ちらりはらりと花びらが舞い降りていった。