再会・忍人

風にのって、かすかなすすり泣きが聞こえてくる。
……ああ、彼女を泣かせてしまったのか。
山道を下りながら、忍人は胸がかすかに痛むのを感じた。

…それは思いがけない邂逅だった。
三輪山には、毎年立ち寄っていた。あの桜の園が好きだった。だが、毎年、桜の盛りにと
はいえただ一度立ち寄るだけのあの場所で、まさか陛下に会おうとは。
すっかり女王らしくなられていた。あの戦いのさなかにふっつりと断ち切った髪は、また
元通り伸ばして美しく結い上げられ、外への御幸ゆえ、多少は身軽にしているだろうがそ
れでも重々しく見える女王の衣装。優雅に歩く仕草、威儀を正した立ち姿。…それに何よ
り、威厳漂うあの口調。
…自分が知っていた姫は、本当に普通の少女だったのに。
先に陛下と呼びかけたのは忍人だった。まさか、女王陛下に姫と呼びかけるわけにはいか
ない。だが、それに応じて千尋が葛城殿と呼びかけてきたとき、胸がちくりと痛んだのは
事実だ。
元のように、忍人さんと親しげに呼ばれる資格は自分にはない。わかっていたはずのこと
に、傷つく自分があさましくて、ことさらに感情を殺した。
姫が自分の態度に傷ついていることには気づいていた。だが、どう話せばいいのかがわか
らない。こんなとき、風早や柊なら、自分の内面を気取らせることなくうまくあしらうの
だろうなと、この場にいもしない兄弟子に八つ当たりめいた感情を覚えた。
とぎれがちな会話。互いに堅苦しい物言い。心をかわすことができないのがつらくて、逃
げだそうとしたのは忍人だった。
「私はこれで」
「お一人で桜を見るのに、私がいてはお気が散りましょう」
今思い返しても唾棄したいような言いぐさだ、と忍人は思う。
正当な理論を吐いてはいるが、俺はただ、自分が逃げ出すために姫を傷つけているだけだ。
だが、傷ついたはずの千尋は、それでもひるまなかった。
「……私は、間違っていた?」
それは、彼女が5年間、ずっと自問自答してきたことなのだろう。忍人から破魂刀を、ひ
いては戦いそのものを取り上げたことは、取り上げて生き長らえさせたことは、果たして
正しかったのか、と。
5年前、…いや、3年前の自分だったら、…あの問いにどう答えただろう。
中つ国が滅びてからずっと心に暖めてきた自分の願いを理解してもらえなかったつらさが
きっと勝っていただろうと思う。
だが5年たって、千尋の治世を野にあって眺めて、…忍人は、生かされた喜びを知った。
彼女のそばで剣を振るうことは叶わなくても、彼女の御代で生きられる自分の幸せに気づ
いた。
伯父が、長の位の継承を言い出したのはその頃だった。伯父に子はないが、伯父の弟であ
る忍人の父や叔父はまだ健在である。先にそちらに譲るのが筋であったが、伯父はあえて
忍人を指名した。
忍人は当初反論した。
そもそも自分よりも先に叔父たちが引き継ぐのが筋であった。また、長となれば、一族の
繁栄のため、有力な部族から妻を娶り、多くの子をなすことも求められよう。……だが忍
人には、どうしてもその気になれなかった。……自分の大切な人はただ一人、…そう決め
ていた。
だが、伯父は忍人の固辞をあっさり切りすてた。そもそも彼からして、子がないというの
に伯母以外の妻を娶らなかった人物である。次の長なら、別に実子にこだわる必要はない。
私がお前を選んだように、一族の中からふさわしい誰かを選べばいいと言い放ち、こう続
けた。
「お前は、大切なことを経験した」
彼は静かに微笑む。
「一族の他の誰も経験していない、大切なことをだ。だから私は、お前に長を継いでもら
いたい」
その一言に負けて、忍人は伯父の意向を承諾することとなった。
だが、承諾した後も心は揺れていた。
族の長ともなれば、宮に出入りする機会も増える。場合によっては女王陛下のそば近くお
仕えする機会もある。現に伯父は、中つ国が滅びるまでは、国直轄の所領の貢を管理する
役職についていた。狭井君とも知己であり、政にもたずさわったことがあるはずだ。
………姫と、再び会う。
………忍人には、そのことが少し、怖かった。
だが。
自分の態度で千尋の心が揺らいでいるのを見たとき、たまらなくなった。傷ついたのは自
分だけではない。自分に剣を折るよう伝えて、そのことで自分に去られた千尋こそが、一
番傷ついていたのではなかったか。
千尋の女王としての御代を生きることができてよかった、と自分が告げたときの、彼女の
泣き出しそうな顔を見て、…忍人はようやく決心がついた。
彼女の治世を平和なまま守るために、…自分にはまだできることがある。有力な一族の長
として、自分はまた彼女を助けることができる。
……それはなんとすばらしいことだろうか。
………たとえそれが、あの天鳥船ですごした日々のような、近しい濃密なものではなかっ
たとしても。
葛城の長としての自分に求められるのは、女王陛下としての彼女を補佐する役割だろう。
だが、忍人は女王陛下のために力をふるうのではない。……たった一人の愛しい少女のた
めに、自分の力の全てを捧げたいと願う。
だから彼女をこう呼んだ。名を呼ぶことは、きっともう許されないから、せめて。
…二ノ姫、と。

山道を下っていくと、ふらりと木の陰から青年が立ち上がった。
少し精悍さを増したが、まとうけだるげな雰囲気は変わらない。
「………那岐」
「久しぶりだね、忍人」
御統を指に絡めながら、那岐はなじるような目で忍人を見た。
「……千尋を、泣かせたね」
「………すまない。……そのようだ」
少し目をそらして忍人はうなずいた。
「人がせっかく気をつかってやったのに」
那岐も、忍人と別の方向に目をそらして、唇をとがらせた。そうしていると、初めて出会
ったときの、まだ少年だった彼を思い出す。
その唇が、ふうとゆるみ、彼はかすかに微笑みをもらした。
「…でもまあ、いいか。……許してやるよ」
「…那岐?」
すう、と彼は息を吸い込む。
「山の空気が、はなやいでいる。桜が、喜んでいる。……千尋が喜んでいるのさ。彼女は
中つ国の神子。龍神のめぐしご。その彼女が喜んでいるから、この三輪山の神が、大地の
長が、祝福している」
こんなのは久しぶりだ、と那岐はつぶやいた。
「あんたがいなくなって、…なんとか禍日神に勝って、国を取り戻して。…でも女王とし
て即位したとたんに、アシュヴィンは国に帰る、サザキは阿蘇に帰る、風早と柊は行方知
れず。……僕と布都彦と遠夜がいるにしても、…きっとずっと、寂しくて心細かったと思
う。毎年大地の恵みはめぐってきたけれど、それを言祝ぐ千尋の言霊はいつも形が先走っ
て、心から大地の神を喜ばせることはなかった」
でも今日は違う。那岐はそういって、ほっとしたように笑った。
「千尋の喜びが山に伝わるのがわかる。言霊にのせなくても大地に伝わるんだね、神子の
喜びは」
それを成さしめたのが忍人ただ一人だったというのは、やっぱり少し悔しいけれど。
「千尋が喜んでいるから、許してやる」
そうか、と、忍人は、山を振り仰ぐ。
君は、喜んでいるのか。……俺は君を少しでも、幸せな気持ちにすることができたのか。
そう思うと、心が少し温かくなった。
「……俺はもう行くが、陛下を、よろしく頼む。…丸腰のようだった」
「……そういうとこ、変わらないね、忍人」
那岐は吹き出した。
「戦場じゃないんだよ。単なる桜狩りの御幸に天鹿児弓を持ち歩けるわけがないだろ?…
心配いらない、すぐ千尋のところに向かうよ。……で?」
「……で、とは?」
「僕は、君にじゃあまた、って言っていいのかな。それともさようなら?」
広葉樹の若葉色をした瞳が、悪戯っぽくきらめく。応じて忍人はうっすらと微笑んだ。
「……いずれ、また」
「……そうか」
那岐はいかにも得心したと言いたげに、よし、と大きく一つうなずいて。
「…楽しみにしてるよ。…また会おう」
ひらひらと手を振り、ゆっくりと山道を登っていった。少しだけその背を見送って、忍人
も歩き始める。
小鳥が一羽、忍人の前に飛んできた。まるで、道を指し示し、彼を先導するかのように、
山道をまっすぐ下っていく。あるいは、三輪山の神の眷属かもしれない。
幸運な邂逅をもたらしてくれた山に感謝の祈りを捧げながら、忍人はゆっくりと山を下っ
ていった。