朔

「夕涼みですか?柊殿」
堅庭に出て空を眺めていた柊の背後から、朗らかな声がした。
ゆるりと振り返ると、布都彦がまっすぐな目で柊を見て笑っている。
「…そんなところですね。…君は?」
問い返すと、ええと、と少し恥ずかしそうなそぶりで彼は頭をかいた。
「柊殿が堅庭に入っていらっしゃるのが見えたので」
追いかけてきてしまいました、と声は照れくさそうだが、その瞳は変わらずにまっすぐだ。
曲がることのない視線に、柊は彼の兄を思い出す。
…そして、彼の兄と最後に語り合った夜のことを。
柊は布都彦から目をそらし、空を仰いだ。素直に布都彦もそれに倣う。
「星明かりはあっても、月がないとやはり暗いですね」
朗らかな声が楽しそうに肩の下あたりで聞こえる。
「…そうですね」
柊は薄く笑い、布都彦の顔を見ないようにして、ぽつりと言う。
「あの日もこんな闇でしたよ」
「…あの日?」
肩の下で、彼の視線が自分の頬あたりに向けられているのがわかった。柊は敢えて視線を
向けない。
「…私と一ノ姫と、…君の兄上とが、国を出奔したあの日、です」
少年がひたりと固まるのがわかる。
「…聞きたいですか?」
穏やかな作り笑いを浮かべて見下ろすと、しかし思いの外強いまっすぐな目が柊を見つめ
返した。
「…聞きたくないと言えば嘘になります」
さすがに布都彦の声は硬かった。
「……ですが、…私は、……私には、残念ながら、まだその話を受け入れる度量がないよ
うに思います」
と言って、彼はうつむく。握りしめた拳は、夜目にもはっきりと白かった。そこまではあ
る意味柊の予想通りだった。
…しかし、布都彦の言葉はそこで終わらなかった。
うつむいていた顔が上げられる。いつもは丸い子犬のような瞳は、今日は少し鋭さが勝っ
ていた。
「それに、…柊殿も」
「…私?」
柊は少し呆気にとられた。
「私が、…何です?」
鋭い瞳は、けれどやはり布都彦らしく透明で澄んでいた。濁りなど映したことのないよう
な綺麗な瞳。
「僭越を承知で言わせていただければ、…柊殿は、話そうか、と口では仰っていますが、
まだ、本当の話を私に教えてくださる覚悟は、出来ていらっしゃらないように思います」
胸をざくりと透明な水晶のようなものでえぐられた気がした。
らしくもなく、一瞬返す言葉を失った柊の前で、布都彦は申し訳なさそうに目を伏せる。
「私の見立て違いならば、失礼をお許しください」
唇を噛みしめている少年の肩は、まだ幼さが残り華奢だった。
だが、大地を踏みしめる足の力強さは、既に私よりもしっかりしている。
…柊は嗤った。
布都彦が顔を上げ、少し心外そうな顔をした。柊はゆるりと首を横に振り、その肩に手を
置いた。
「…君を嗤ったのではありません」
ふう、と吐き出す呼気に、いささかの恥じらいを込める。
「私は、私を嗤ったのです」
「…?」
首をかしげる仕草の幼さは、先ほどの厳しい糾弾が嘘のようで、柊は今度は喉を鳴らして
笑う。
「自分のことが可笑しくなったのですよ。君に言われるまで自分に覚悟が出来ていないこ
とに気付いていなかった、己の迂闊さがね」
もう一度息を吐いて、…そうですね、と柊は言った。
「君の言うとおりだ。…君に話すには、私の中でももう少しあの事件の整理が必要です。
……けれど、もっと時がたてば」
…そう、今は見えないあの月が満ち、また欠けて、また満ちて。…そうして時を過ごして
いけば。
「…いつか。…いつか必ず、君には話しましょう」
君の兄上が、君の兄上が愛した人が、どう生きたかを。
「…ゆっくり、お待ちします」
柊の言葉にようやく安堵したのか、布都彦は肩を開くようにして微笑んだ。
月のない夜に、明星だけがまるでしるべのように明るかった。