三環鈴

道臣は息を切らして走っていた。
後ろから男が追いかけてくる。常世の兵だ。新兵を連れて行軍中に、不意に通りかかった
常世の斥候。
斥候ただ一人なら、と、新兵たちを先に逃がし、とどまって迎え撃っていた道臣だが、そ
の刀が彼の腕を傷つけたとき、男の様子が明らかに変わった。
それまで、手練れと言うほどではないが、動きに流れがあった男の剣が、不意に獣の爪の
ような勢いに変わったのだ。そう、本当に、手負いの獣のように。
剣で何度か受け止めたが、その勢いの恐ろしさを受け止めかね、剣で相手の剣を跳ね上げ、
飛ばしたときに、とどめを刺すことも怖くて、道臣はその場から逃げ出してしまった。
男は追ってくる。
根の絡まった森の地面をものともせずに追ってくる。
道臣は必死で逃げる。だが、彼には足元の不確かさが走りにくくて仕方がない。
ふところで、三環鈴がごろりと音を立てた。
…鈴はまだ二つ残っている。
……使えば、逃げられる。
新兵は逃がした。ここで自分がこれを使って戦場を逃げ出しても誰かが困ることはない。
…いやしかし、あの手負いの獣のような男は、自分を逃がしたら、理性を取り戻すだろう
か?
あのまま、他の誰かを、…罪もない村人を、襲うようなことはあるまいか?
考えながら走り続ける道臣の行く手に、…人が一人立っていた。
「……?」
ふ、と足取りが鈍る。
…その人影に、…なぜだろうか、見覚えがあるような気がして。
道臣の油断を、斥候は見逃さなかった。
振りかぶられる剣の気配。
ぎぃん、と、金属と金属が切り結び合う、嫌な音がした。
ぎりぎり、男の剣を受け止めて。しかし、道臣は体勢を崩してしまった。
…駄目かもしれない。
そんな言葉が胸をよぎった、そのとき。
「…よく、ここまで追い詰めましたね」
涼しい声がした。
道臣の背を、何かが這いのぼっていった。…それは、悪寒のような、震え。
「軍師殿…!」
斥候が、道臣の背後にいる人影に向かって呼びかける。
「その男は中つ国の中枢に近い男です。生かしてレヴァンタ様に届ければ、いろいろ情報
も得られるでしょう。さあ、縄で縛って」
斥候はそそくさと道臣を縄で縛る。縛られた手首がぎりりと痛いが、剣で刺し貫かれるわ
けではない。
「レヴァンタ様のところに行く前に、報賞をあげなければ。…こちらへおいでなさい」
そそくさと男に近寄る斥候を振り返って、…道臣は見た。
軍師殿、と呼ばれた男が、昔なじみの男であることを。
そして、その男がいともたやすく、手のひらに隠した暗器で斥候を殺してしまうところを。
「……ひ、……ひいらぎ」
男は、いつの間に失ったのか、片眼を眼帯で隠して、残る片眼でにっこりと笑んだ。
「お久しぶりですね、道臣殿」
「こ、…殺したのですか?あなたの、味方でしょう?」
「味方?…この男がですか?…この男は、私の味方でも何でもありませんよ」
「しかし、彼は今、あなたを軍師殿、と」
「……ああ、…ええ、私は今、常世の国のレヴァンタの軍師ですからね。……そうですね、
そういう意味でなら確かに、この男は私の味方と言えるでしょう。…いや、正確には、味
方だった、かな」
涼しい顔と声で柊は言う。
「…?」
道臣が眉をひそめていると、
「…お気づきになりませんか?」
柊はねっとりとした声で言った。
「この男は既に、荒魂と化している。こうなってしまってはもう、味方でも何でもありま
せん。殺すしかないのですよ」
こともなげに言い放つ柊を、道臣はただじっと見つめた。…何か言いたいことも、聞きた
いこともあるはずなのに、何も声にならない。何も出てこない。
「…ああ、いけない。忘れていました。…あなたの縄を解いて差し上げなくては。…あの
男を殺すときに、あなたがうっかり止めに入られると厄介なのでね。拘束させていただき
ましたよ」
相変わらずあなたはお優しい。あんな手負いの荒魂、さっさと殺してしまえばよいものを。
道臣の縄をほどきながら柊が言う優しい、という言葉が、甘い、という言葉にしか聞こえ
なくて、道臣はぎゅっと目をつむった。
「…さあ。…さっさとここから立ち去ってください。…あなたの兵たちは、無事に筑紫方
面へ逃げましたよ。今頃は菊池から八女の方へ向かっているでしょう」
「…あなたは?」
「私ですか?」
おかしなことを聞く、という顔をして、柊はくっくっと笑った。
「…私は高千穂へ戻りますよ。…私の今の主君がそこにいるのでね」
道臣は手首をさすりながら立ち上がった。柊と向き合う。
「……本当に、…常世についたのですね。…あなたともあろう方が」
「…私?」
柊は不思議そうに首をかしげた。
「…私とは何でしょう、道臣殿?」
…そして、よくわからないことをつぶやく。
道臣が怪訝な顔をしていると、柊はまたあの食えない笑みを浮かべる。
「私は、友を失い、仕えるべき姫を失い、己の片眼までも失った、ただの弱き者に過ぎぬ
のです。…あなたに、あなたともあろう方が、と言われるような私は、この世のどこにも
もういない」
それは、柊が柊のことを語っている言葉のはずだった。道臣の過去とは全く違う、柊自身
の過去のはず。
…だが道臣には、それが自分のことであるような気がしてならなかった。…なぜか、柊は
自分を責めるそぶりで道臣を責めているような気がした。
…それが、被害妄想だとわかってはいても。
柊は肩をこわばらせている道臣を見て、またくっくっと喉を鳴らした。
「…道臣殿も、…くれぐれもご注意あれ。………荒魂はいつでも、弱き者を狙っておりま
すよ…」
…では、と翻された背中に、道臣は必死で声を振り絞った。
「…柊!」
ひた、と柊の足が止まる。
「…風早の行方はわかりませんが、忍人は元気でいるようです。…私も、噂に聞くばかり
ですが」
忍人の名を出したその一瞬だけ、柊の背中が震えたような気がした。…だが、森の闇の中
それは本当に一瞬で、本当に震えたと言い切る自信は道臣にはなかった。
「……私は、あなたのそういうところが、昔から少し苦手です」
だが、柊は、先ほどまでの獲物を追い詰めた猫のような声とうってかわった、少しかすれ
た声でそういうと、そのまま振り向きもせず森の闇の中に消えていった。
道臣は、急に力が抜けてしまって、ぺたんとその場に座り込んだ。
ふところでまた、三環鈴がごろりと重い。
……だが、今夜は少なくとも、自分はこれを使わずにすんだのだ。
…何かから逃げ出さずにいられたのだ。
混乱して、麻の糸がもつれたように千々に乱れる自分の感情の中で、ただその一点だけが
きらりと胸に輝いているように思えて。
道臣は、ぎゅっと三環鈴を握りしめた。

…荒魂はいつでも、弱き者を狙っておりますよ。

けれど。
あの獲物を追い詰めた猫のような、柊のねっとりとした声だけが、いつまでも道臣の耳か
ら去らなかった。