笹子鳴く それで次の件だが、と、竹簡を繰ろうとした忍人の手がふと止まった。耳をそばだててい るようだ。何事かと同じように聞き耳を立てて、それが聞き慣れたいつもの鳴き声だと気 づき、千尋は小さく笑った。 「この、チャッチャッて声でしょう?この間からずっとなんです。もう、聞き慣れちゃっ て」 「ああ」 忍人も目を伏せ、穏やかな笑顔になった。 「笹鳴きだな。もうそんな時期か」 「…笹鳴き…?…忍人さん、これが何の声か知ってるんですか?」 「ああ。鶯の声だ」 「…うぐいすー?」 千尋はぽかんと口を開けた。 「鶯って、あのほーほけきょの鶯ですか?…でも、鳴き声が全然ちがいますよ?」 「鶯がその声で鳴くのは普通春だけ、しかもオスだけだ、陛下」 目元に苦笑をにじませながら、そのくせ笑ってはならじと自分を戒めるようないかめしい 声で、忍人は言った。 「求愛をするときだけ、美しい声で鳴くのだそうだ。それ以外の時期はこうして地味な声 で鳴いているらしい。…春から秋は山深くで暮らしているが、冬になると餌を探して里に 下りてくる。おかげで、冬ならこうして、地味な小さい鳴き声の方も耳にする機会がある というわけだ」 「……へえー……」 千尋は尊敬と感嘆の入り交じった目でまじまじと忍人を見た。 「物知りですね、忍人さん」 忍人は片眉を上げ、困った顔で肩をすくめた。 「俺自身は、さほど博識というわけではない。…こうしたことは皆、風早から教わった」 その名が出たとたん、千尋の肩が小さくぴくりと震える。 「…風早が…?」 囁くような声で復唱する。その声のかすれに、忍人は敢えて気付かぬふりをした。 「ああ。…風早はおそろしく物知りだった。…俺の兄弟子達はおしなべて…柊にせよ、道 臣殿にせよ、竹簡など熟読しそうにない羽張彦でさえ、分野は違えど皆聡明で博識だった が、中でも風早の知識の豊富さは群を抜いていた」 千尋の執務机に手にしていた竹簡をふとおろし、ゆったりと腕を組んだ忍人は窓の外に目 をやった。ささやかだったチャッチャッという笹鳴きの声がやや音を大きくしたからだ。 二羽三羽で声を重ねていると見える。 「誰かが話しているときは、へえそうですかと初めて聞いたような顔をしているんだが、 いざさて誰もそのことを知らないとなると、片隅から穏やかに正解を教えてくれる。…笹 鳴きのことも、鶯の習性も、俺はそうして風早から教わった」 君も、と言いかけて、失礼、と忍人は言い直す。 「陛下も、長く風早と過ごしただろう。…きっと、いろんなことを教わったはずだ」 「…そう、ですね」 はぎのはな、おばなくずばな。…歌うように、数えるように、ささやく優しい声を不意に 思い出す。 「なでしこのはな。おみなえし、ふじばかま」 なぜだろう、もっといろんなことを教わったと思うのに、脳裏によみがえるのは花を指さ す風早の白く長い指と、穏やかな声ばかり。 「さざんかにつわぶきにびわの花…」 秋の花、冬に咲く花。春開く辛夷や馬酔木の花も、夏に咲く卯の花や桐の花も。みんな風 早が指さして教えてくれた。誰も千尋を見ぬふりでいる宮中の中、風早だけが手を取るよ うにして守り慈しみ育ててくれた。 「…花の名前ばかりだな」 ふ、と、息をこぼすように忍人は笑う。 「なるほど、風早はわきまえている」 「…何がですか?」 「風早は、俺のように陛下に対しても戦術や訓練の話しか出来ぬ朴念仁とは違うという意 味だ」 今度苦笑をこぼすのは千尋だった。 「忍人さんだって、今鳥の名前を教えてくれたじゃありませんか」 「…そういえばそうだ」 我に返ったような顔を忍人がしたので、千尋はもっとおかしくなって、くすくすと声を上 げて笑った。風早の名前を聞いてじわりと心に忍び込んだ切なさが、少しだけ薄れる。 忍人が竹簡を置いて窓を見ているのをいいことに、千尋も少し手を休めて机の前から立ち 上がった。聞こえる笹鳴きの声はやはり二羽か三羽。つがいだろうか。それとも親子? 「冬の笹鳴きには、子が親に鳴き方をならう意味合いもあるという。…春いい声で鳴くた めに、今から練習をしているのだそうだ」 まるで千尋の心を読んだかのように、静かに忍人がつぶやいた。 「じゃあこれは、先生と生徒の鳴き声かもしれないんですね。…私と風早がそうだったみ たいに」 「…ああ、そうだな。…俺と風早がそうだったように」 千尋は見上げて。忍人は見下ろして。目と目が合って、二人淋しく笑う。 師はいつか弟子を置いていくものだと頭ではわかっているが、風早との別れの傷はまだ互 いに癒えていないのだと、鳥の声一つで思い知らされる。 窓の外は冬ざれの枯藪。声はするものの鳥の姿はなく、ただひしひしと寒さがつのる。人 恋しい人恋しいと鳴くのは雁か、あるいは百舌鳥か。鋭くもさびしい声が穏やかに唱和す る笹鳴きを引き裂くように響いて、二人をはっとさせた。 春遠く、ただ思いが凝るばかりの、冬の庭。