誘い水 「共寝の寝言に他の子の名前呼ぶなんて、普通やったら許さへんけど、……あの子の名前 だけは許すわ」 目を開けて、蓬生はいきなり口を開いた。大地はゆるゆると顔を向ける。 「…目が覚めたのか?…何だい、いきなり」 「……」 蓬生は大地を見ず、天井を見上げている。 「……俺、…呼んだやろ。千秋のこと」 「…」 大地は穏やかに微笑んでしばらく沈黙していたが、…やがて、何のことかな、とひそやか に応じた。ようやく蓬生は顔を傾ける。 まだ日の光の差さない黎明。蓬生は眼鏡も外している。本当なら大地の表情など見えない はずなのに、その穏やかな笑顔がはっきりと見えるのが少し不思議だった。 「……夢見ててん。…千秋の夢」 様子をうかがうように言葉を切ったが、大地の穏やかな表情は変わらない。ため息をのん で、蓬生は言葉を続ける。 「俺が子供で、病院に入院してて、千秋が見舞に来てくれて、帰る夢。……悲しいて、胸 がかきむしられるみたいやったのに、現実の俺はいっつもつまらなそうな顔して見送って るだけやった。…せやけど、夢の中の俺は、喉が裂けるかと思うくらい千秋の名前呼んで、 …叫んで」 一瞬、…ほんの一瞬、大地が「あれはそれか」と納得した顔になった。すぐに何事もなか ったように取り繕い、さっきと同じ穏やかな笑顔を作ったけれど、その一瞬で蓬生は理解 した。 …やはり自分は、声に出して千秋を呼んだのだ。 胸が熱いような苦しいような、何とも言えない掻痒感があった。病気の頃の夢を見たから だろうか。 あの頃お荷物だと思っていたのはポンコツのこの身体だった。 だが今お荷物なのは、磁場に惑わされる方位磁石の指針のように、千秋とこの男の間でく るくる回る、己の心。 不意に大地が身を寄せてきた。けだるくその首に腕を絡めようとした蓬生をそっと止めて、 耳元に甘い声で、…冷たくささやく。 「…ところで、誰の名前なら、俺は寝言で口にしても許されるのかな」 …っ。 知っとうくせに、と言いそうになるのをこらえて、ふいと蓬生は顔を背けた。 「…あの子って、言うたやん」 「あの子じゃわからないよ。…いざ呼んだら、それは違うと怒られそうだ。…土岐の口か ら教えてくれ」 千秋を呼んだ意趣返しかいな。……性格悪。 はあ、と、これはかなりわざとらしくため息をついてみせて、 「…きさ…」 せっかく勇気を出したのに、発語するやいなや、口づけで言葉を奪われた。 「…っ、何…っ」 言えと言われたから言ったのに、言おうとすると止める。いったいどうしたいのかと、少 し恨めしい気持ちで睨み付けると、 「思ったより馬鹿正直だな、君は」 大地は眉をひそめながら、けれど優しく笑っていた。 「ここは、自分の名前を挙げて、さっきの失言をなかったことにするところだよ」 ………。 じわり、笑いが蓬生の頬をくすぐる。 「……ずっるいなあ…。…榊くんはいっつもそんなずるいことばっかり考えてん?」 「まあ、だいたいは」 「性格悪」 …そして、ひどく優しい。 蓬生は嫌になるほど優しいその顔に手を添えた。 「……なあ、せやけど。…キスは口封じのためにするもんとちがうで?」 「…というと?」 余裕めかしたその唇に、誘い水の軽いキスを一つ。 「息を奪って、溺れさせて?」 恋に。…あなたに。