さよならは、あの場所で。 最近俺たちは、さよならをホームや改札では言わない。 そろそろ夜が近づいてくる。 俺たちはいつものように、駅近くにある大型書店へと足を向けた。 蓬生は文庫や新刊の棚を物色し、俺はたいてい、試験対策の(そろそろ国家試験が近いの だ)参考書がある棚を見つめている。 やがて背後に人の気配がして、 「ほな、もう行くわ。……また」 何百qも遠く離れた場所に帰って、何ヶ月も会えなくなるはずの恋人は、なぜだか、また 明日会うからええやろ、とでも言いたげな顔と声で、俺の背中をぽんと叩く。 俺も、一瞬だけ本の背表紙から目を離して彼を振り返り、ああ、気をつけて、とだけ声を かける。 …蓬生はともかく、俺はやせ我慢だ。 …みっともないな。…なんだかとてもみっともない。 蓬生が平気な顔をしているのが悔しくて、俺も必死に平静を装っているけれど、……俺は、 本当は。 蓬生の足音が遠ざかる。人混みに紛れ、気配を感じ取れなくなる。 「……!」 俺はたまらず、きびすを返して足早に本屋を出た。 ……そして、駅に向かって、周りの迷惑を承知で走り出す。 蓬生はそんなに急いで駅に向かったわけではないようで、すぐにその背中は俺の視界に飛 び込んできた。 ほんの少し猫背気味なその背中からは、彼の感情は読み取れない。…一瞬躊躇したけれど、 やっぱり我慢が出来なくて。 「……っ、蓬生」 息を切らせて、その腕をつかむ。 「……!?」 蓬生はぎょっとして振り返り、俺の顔を見て目をゆっくりと見開いた。 「…大地!?……何……」 「……っ、……もう、少し」 …未練たらしい。みっともない。……それでも。 「……もう少し、…見送らせてくれ」 一分一秒でも長く、一緒に。……それが俺の本心。 「……大地」 蓬生は喉が詰まったような声でつぶやく。 「さよならはやっぱり、…改札で、言わせてくれ」 「……」 困惑と、拒絶が蓬生から伝わってくる。…それでも、俺は蓬生の腕を放さなかった。 「…………頼む」 ゆるゆると蓬生は首を横に振った。 「…未練がましく見えて、…いややのに」 「見える、って。……誰が見ているんだ」 「……っ!」 蓬生は虚を突かれた顔で俺を見上げた。俺はまっすぐ、蓬生を見返した。 「今ここにいる俺たちのことは、誰も、見てない。…そうだろ?」 「………」 「未練がましいのは本当のことだ。…真実の気持ちに見栄を張って、君を失うようなこと はしたくない」 蓬生は俺の目をじっと見つめて、…やがてがくりとうなだれるようにうなずいた。 「…ほんまや、な」 「……蓬生」 「…ここにおりもせん誰にいったい、俺は見栄をはっとんのやろ」 「……蓬生」 蓬生は、珍しく力が抜けた顔でにこりと笑う。 「…もう、あと数百メートルしかないけど、…一緒にそこまで行こか?…大地」 「……ああ」 抱きしめたりキスしたりはもちろん、普通の恋人同士なら簡単に出来る手をつなぐという 行為さえ、人目があるこんな雑踏の中では、俺たちには出来ないから。 肩を並べて、同じリズムで、歩く。かすかな体温の気配と息づかいだけを、忘れまいと心 に刻む。 改札は、本当に近かった。情けないほど近かった。それでも蓬生は、俺を振り返って笑っ ていて。 「見送りありがとう」 「…いいや」 たぶん俺の顔も同じように微笑んでいるのだ。自分の心に素直になれた、その満足感で。 「…ほな、行くわ。……また」 「…ああ、…気をつけて」 改札の前で交わす言葉は、さっき本屋で交わしたものと変わらないのに、…満ち足りて柔 らかく、胸を熱くする。 俺はそっと手を上げて蓬生を送った。…胸はまだ、じわりと熱かった。