山茶花 千尋の机上には時折花が生けてある。 那岐や遠夜が薬草園に咲いたものを届けに来ることもあるし、布都彦や忍人が遠出の途中 で見つけたものを携えて訪れることも、采女たちの心遣いもあるが、今日の花は、そのど れともちがっている。 竹簡を手に入ってきた道臣が、ふと目を止めて微笑んだ。 「山茶花ですね」 「きれいだったから、一輪手折ってきたんだけど、…こうして部屋にいけるとなんだか印 象が変わるというか」 話しながら、千尋は少し言葉を探した。どうも自分の曖昧な感覚をうまく説明できる気が しない。 だが、道臣はふと笑って、 「少し寂しそうですね」 と会話を受けた。 「そう!そうなの!」 思わず千尋は手をぱんと一つたたく。 そうだ、そう言いたかった。 木で咲いているときは華やかでおしゃべりに見えた花が、こうして一輪だけ机に置くと、 ずいぶん無口に見える。 「山茶花は、木にあってあふれるように咲く姿を見慣れていますから、一輪だけ取り出す とそう感じるのでしょうね」 優しい言葉で千尋のもやもやを上手にひらいて、道臣はぽつりと付け加えた。 「この花を見ると、陛下の姉上を思い出します」 千尋ははっと、道臣をまっすぐに見た。 「道臣さんの口から姉様のことを聞くの、初めてです」 道臣は竹簡をそっと机上に置きながら、そうですか?と少し首をかしげたが、すぐにそう ですね、とうなずいた。 「よかったら少し姉様の話をしてもらえませんか?」 「決裁が続いて飽かれましたか?」 図星を指されて千尋がうっと詰まると、道臣はくすくすと笑った。 「陛下の気分転換になるようでしたら少しお話しいたしましょう。柊ほど姫と親しく接し ていたわけではないので、たいしたお話はできませんが、お許し下さい。初めてお会いし てからの年月だけは、たぶん彼より長いのですが」 椅子を勧めながら千尋は首をかしげた。 「道臣さんが初めて姉様に会ったのって、いくつくらいのときですか?」 「私が初めて宮に上がったときですから……明けて正月、そうですね、私が十四で、姫も 四つになられたばかり、のはずです」 この世界は数え年だ。正月で一つ年を取ったばかりの四歳といえば、満年齢なら二歳と数 ヶ月。 「姉様ちっさ!」 思わず千尋が口走ると、道臣も苦笑しいしい、 「ええ、幼子でいらっしゃいましたよ、今にして思えば」 うなずいた。 「…私は、その幼い姫にはっとさせられました」 彼の瞳は千尋を通り越し、どこか遠いところを見た。 「姫はその幼さながら、既に王の顔をなさっておられました。姫はすっきりとした白い衣 装を着ておられたのですが、美々しい衣装に身を飾りそれぞれに美しいたくさんの采女た ちに囲まれてなお、姫の美しさだけが凛と際だつようでした」 道臣の言葉は簡明でわかりやすい。言葉が紡がれるとするすると千尋の脳裏に絵が浮かぶ。 「ちょうど庭の山茶花が満開でした。少し散り始めながら、けれどこぼれそうに美しく咲 き誇っていて、それをご覧になった姫は回廊から、庭にいた私に花が一輪ほしいとおっし ゃいました。思いがけず声をかけられて、私は足が浮き立つようでした。必死に花を選び、 一番美しいと思ったもの、今まさに開こうとしている、ふくらみきったつぼみを一輪選ん で、手折って差し出しました」 道臣がふと、千尋の机上の山茶花を見る。 「この花と同じです。木にあるときは、それが一番明るく美しい花と見えたのに、手折っ て差し出したとたん、それは美しいながらも寂しい、明るさよりも心許なさが勝った美し さになってしまった」 窓からの風が、山茶花の花びらをひとひら散らす。 「おそるおそるその花を差し出して真正面から姫を見たとき、同じだ、と私は思ったので す。…この方の美しさはこの花と同じだ。美しく気高く誇り高く、…けれどもふっとさび しい、たった一輪取り残されたような花」 道臣は少しずつ低くなっていた声をそこでふいに切り替えた。千尋に向かって首をかしげ、 笑ってみせる。 「…あまり、楽しいお話ではありませんでしたね」 申し訳ありません、と頭を下げられて、千尋はあわてて、いいえ、と首を横に振った。 「そんなことありません、謝らないでください。ただ私、…少し、驚いてしまって」 …そう、驚いたのだ。道臣の語る一ノ姫の姿が、自分の記憶に残る姉の姿とはずいぶんか け離れているようで。 「…柊から聞く姉様も、忍人さんから聞く姉様も、見かけによらないおてんばで明るくて 振り回されたなんて言われるくらいで、…さびしいなんて、あんまり」 しどろもどろの千尋の言葉に、道臣はふふ、と笑った。 「…宮に上がってすぐ、私は師君の元で勉強させていただくようになりました。数年後、 そこに吉備からやってきたのが羽張彦です」 それから柊が、風早が、忍人が集った。大所帯であった岩長姫の私塾は、道臣と彼から始 まったのだ。それは千尋も知っている、が。 要領を得ない顔をしている千尋に、道臣はもう一押しのヒントをくれた。 「あの二人は、羽張彦と出会ってからの一ノ姫しか知らないでしょうからね」 ……! 「…あ」 思わず声を出した千尋に、道臣の笑みが深くなる。 「…えと、…そーゆー、こと?」 「だと思いますよ。…たとえば、布都彦に陛下の印象を聞けば、強く明るいあなたしか思 い浮かべないでしょう」 宮で一人、取り残された子供だったときの千尋を知らない青年。 「それは、彼が、忍人に出会ってからの陛下しか知らないからではないでしょうか?」 …。 「み、道臣さん!」 真っ赤になった千尋の前で、道臣は椅子から立ち上がり、そっと一礼をした。 「余計なことを申しました」 言いながら、彼は楽しそうに笑っている。 「これ以上陛下の手を止めないうちに退散いたしましょう。…先ほどの竹簡にお目通しと 決裁をお願いいたします」 立ち去る彼の後ろ姿に、千尋はふと柊を重ねてしまった。今まで一度も思ったことがない のに何故だろうかと思ってから、眼差しが似ているのかもしれないと気づく。長く周囲を 観察してきた、傍観者であろうとし続けた眼差し。それがどこか似ているのかもしれない と。 山茶花がはらりとまた花びらを散らす。 彼もまた、さびしい山茶花であるかもしれない。