政略結婚

婚礼の準備が着々と進んでいる。豪華な衣装、美しい髪飾り、覚えなければいけない誓約
の言葉、式典の段取り、その合間に、中つ国の王族としてこなさなければならない様々な
承認事。何もかもがめまぐるしくて、あまり考え事をしている時間はないのだけれど、そ
れでも手が空くと、ふと考えてしまう。
……アシュヴィンは、何を考えているのだろう。
一緒に戦っていたときは、あまりこんなことは考えなかった。目の前の敵とどう戦うか、
戦局の判断をどうするか。毎日話し合い、考えをすりあわせ、…わからないことなど何一
つなかった。
もう少し前、敵として対峙していたときは、何を考えているのか、と思ったことも何度か
あった。それでも少しは、自分がこう動けばアシュヴィンはこう出てくるのではないかと、
駆け引きのまねごとのようなこともできた。からかわれたり、あしらわれたりするばかり
だったけれど、今よりも、気持ちは近かった気がする。
…今は、何もわからない。
今のアシュヴィンは千尋をからかったりすることはない。それ以前に、話しかけてくるこ
とがない。婚礼が決まったとたん、彼は彼の支度でで忙しくなってしまって、会うことさ
えほとんどない。その支度というのも、千尋のような婚礼のしきたりや段取りを覚えると
言うことではない。中つ国の姫を妻に迎えるにあたって、常世の国で根回しをしないとい
けないことや、一度皇に背いた身で多くの兵を常世の国に連れ帰るために、確保しなけれ
ばならない道筋などがあるのだそうだ。……しかもこれも、アシュヴィンに聞いた話では
ない。留守を預かるリブが、申し訳なさそうに話してくれたことだ。
話ができれば、もう少しはわかるのかな。……それとも、武人でない私には、話をしても
わからないことなのかな。
そのとき、部屋の入り口のあたりで軽い咳払いが聞こえた。
顔を上げると、忍人が立っている。千尋と目があったのを確認して、彼は部屋の中に入っ
てきた。
「…失礼する。…君が常世の国に行くときの、護衛の予定だ。あまり大人数を割くと、常
世の国にいらぬ腹を探られることになるだろうから、なるべく少数精鋭でいきたい。いつ
もの面々は当然として、後は俺の直接の配下の狗奴の兵を5人ほど、師君の腹心の兵を5
人ほど。…いずれも腕は折り紙付きだ」
竹簡を広げてみせながら、淡々と必要事項を告げる忍人を、千尋はぼんやりと見た。
忍人さんも、武人だよね。……忍人さんは、私よりも、アシュヴィンのことがわかるかな。
「…二ノ姫?聞いているか?」
「あ、はい、聞いてます。…えーと、つまり、10人?一緒に来る、んですよね?」
「……大事なところは人数ではないのだが」
忍人は顔をしかめたが、手にしていた竹簡を置き、
「まあいい、おおむね話は聞いていたようだ。同じことの繰り返しになるが、一応この竹
簡にも書いてある。もし忘れたらこれを見返してくれ。…君も毎日忙しくしている中のた
まの休息だろう。邪魔をして悪かった。では」
言うだけ言って、さっさと背を翻そうとする。思わず千尋はその袖をつかんでしまった。
「…?」
「待って!」
忍人は少し目を見開いて顔だけ振り返った。
「……何か」
「あの、…護衛の話とは関係ないんだけど、聞きたいことが…」
「?」
忍人は不審そうにしながらも、一応体ごと千尋に向き直った。
「……俺に?」
「ええ。…あのう、…忍人さんは武人だから、私よりはわかるんじゃないかと思って」
「…?俺に、何がわかると?」
「…………今、アシュヴィンが何を考えて行動しているか、とか…」
「・・・・・・・」
忍人は千尋に向き直って腕を組んだ姿勢のまま、たっぷり2分は沈黙した。無言はもちろ
んだが、表情も全くない。
「……あ、あのう…」
おずおずと千尋が言葉を重ねようとしたとき、片手でそれを制して、その手で忍人は額を
押さえた。
「君は……」
はー、と、深い深いため息を一つ。それから手を額から放してすうっと息を吸う。
………あ、まずい、と千尋は思った。…こんな時に何をって、きっと怒られる…!
思わず身をすくめて両手で頭を抱え込んだら、
「ふ」
忍人の唇から漏れたのは怒鳴り声ではなく、小さな笑い声だった。
「……?」
おそるおそる見上げると、ぽん、と忍人の左手が頭の上にのせられた。右手はゆるくこぶ
しを握って口元を隠している。…かすかに口角があがっているのが見える。
「…よほど、せっぱ詰まっているんだな」
ぽん、ぽん。…頭を二度軽くなでて、忍人の手は離れていった。
「……せっぱ詰まってというか…」
「せっぱ詰まってでもいなければ、俺にそういう相談はしないだろう。俺はどう考えても、
年頃の女性が恋人の気持ちについて相談するにはふさわしくない相手だと思う」
「こっ……!」
こっ、恋人っ?恋人って、えっ?
「こっ、こっ、こっ、恋人とか、そんな、アシュヴィンは確かに結婚相手ですけど、でも、
それはまた違うというか、そのっ」
「……ニワトリみたいだな」
真面目に言われてまた千尋はとっちらかった。
「忍人さんっ!」
「ああ、ニワトリと言ったのは悪かった」
「そっちじゃなくて、あのっ」
恋人って言った方を、と千尋が言いつのろうとすると、ふ、と片頬で笑われていなされる。
…うう。
「…俺より風早の方がよほど相談相手に向いている気がするが、今回に限ってはあれは、
妹を取られる兄の心境だろうからな。あまり頼れまい」
忍人のその言葉には、あ、そうか、と少し納得する。うだうだ考えていることを、どうし
ても風早に言いにくいのは何故かと自分でも少し不思議だったのだが、そうか。自分も風
早のことを兄のように思っているから、こういうことを相談すると、「お兄ちゃん」に「婚
約者」について不満を言うようで、……お兄ちゃんが怒ってくれることを期待しているよ
うで、言いにくかったのだ。怒ってほしいわけじゃないから。ただ、アシュヴィンのこと
を知りたいだけ。
「とはいえ、俺にアシュヴィンの気持ちがわかるわけでもなし、…あまり君の救いになる
ことは言えそうもないのだが、…二つだけ、教えられることがある」
「…なん、ですか?」
「たとえば、ここに俺と那岐と道臣殿がいるとする。…3人ともしかめ面だ。……もし君
がその理由を想像するなら、誰のしかめ面の理由が一番想像しやすい?」
「…え。…え?…しかめ面?……え、でも、道臣さんがしかめ面になるなんて想像できな
いし、…忍人さんはどちらかというといつも…」
いつもしかめ面だし、と言いかけて、あわてて口を手でふさぐ。が、時既に遅く、そうだ
な、俺はだいたいいつもしかめ面だ、とわざとらしいむっつりした顔を作って忍人が言っ
た。そんなつもりじゃ、と言いかけるとそれより那岐は、と、先を促される。
「えーと那岐は…。…きっと、昼寝の邪魔をされたとか、来たくないところに無理矢理連
れてこられたとか…」
「…そう、…那岐ならなんとなく想像がつくだろう」
俺や道臣殿のことはわからなくても、と忍人が言うので、千尋はあわてた。
「でもそれは、那岐とはずっと長いつきあいだからで」
すると、忍人がふっと千尋の心臓のあたりを指さした。
「…それだ」
「……はい?」
「何年かそばで一緒にいたから見えてくることがある。俺や道臣殿とのつきあいと比べて、
君と那岐のつきあいは遙かに長い。だから、姫と鬼道使い、立場が違っても、君は那岐の
気持ちがある程度わかる」
………あ。
「…はい」
「同じことだ。君がこれからアシュヴィンと5年も過ごせば、…彼の笑顔の下で何が企ま
れているかとか、しかめ面の下で何をこらえているかが見えてくるだろう。…今のリブの
ように」
「………はい」
一朝一夕にわかろうとするのは難しいだろう。だが、共にいればいずれはきっと見えてく
る。
「それともう一つ。…アシュヴィンのものの考え方は、武人というよりも施政者のそれだ」
「…シセイシャ…?」
忍人は指でこめかみを押さえた。
「…相変わらず、風早の教育が不足しているな。…施政者というのは政を行うもの。君主
のことだ。……君もそうだ」
「私も…」
「そう。君も、今でこそ、国を取り戻すのにせいいっぱいで、国を治めることについて考
える時間はないだろうが、橿原宮をこうして取り戻したからには、いずれ統治者としてこ
こを統べる立場になる。…そうすれば、嫌でも、アシュヴィンが施政者として何を考えて
いるのか見えてくるだろう。君も同じことを行わねばならないかもしれないのだから」
君が施政者としての意識を持つにも、まだ時間がかかるだろう。だから俺の話はどちらも、
すぐには君の役には立たない。
「…だがいずれきっと、君とアシュヴィンは今よりわかりあえるようになる。…焦らない
ことだ」
もう一度、ぽん、と千尋の頭を優しくたたいて、忍人はでは、と改めて身を翻した。
「忘れずに、竹簡に目を通してくれ」
「あ、はい、…あ、待って、あの!」
……まだ何か、と今度ははっきり仏頂面で振り返られて、一瞬臆したけれど、千尋は勇気
を振り絞った。
「あの、…ありがとう。…大事なことを、教えてくれて。…こんなときに何を馬鹿なって
怒られても仕方のないことを聞いたのに。…うれしかった」
「…礼を言われるほどの立派な忠告でもない」
しかし、忍人は仏頂面を少し和らげた。
「が、少しでも君の役に立てたなら、…俺もうれしい」
言い残して、今度こそ足早に忍人は部屋を出て行ってしまった。後ろ姿の、漆黒の髪から
のぞく耳の先が少しだけ赤くて、それがなんだかかわいくて、千尋はうじうじと悩んでい
たことを忘れて、幸せな気持ちになってしまった。
…そうだ。忍人さんともこんな風には話せなかった。ずっと一緒にいたから、こうやって
話せるようになったんだから。私とアシュヴィンはまだこれから。……まだまだこれから。
「よし、少し元気出た」
ふん、と両手で握り拳を作って気合いを入れると、千尋は机の上にいくつか並んだ竹簡に、
順番に目を通し始めた。