青龍

朱雀は、厳格ではあったが、我々ににきちんと向き合ってくれた。
白虎は、我々が彼を解放したことを、喜んでさえいるようだった。
だから、青龍にも、会えさえすればうまくいく。
…出雲の祭りが開かれることが決まったとき、俺の中にそういう考えがあったことは否定
しないし、仲間たちも、多かれ少なかれそう思っていたのではないかと思う。
だが青龍は、我々の予想を見事にくつがえし、はるかに頑固、…いやいっそ偏屈と言って
いい神だった。

光の架け橋を越えて磐座に入ると、それまでの苦労を無にするようにそこはがらんどうで、
何の気配もなかった。
「…え?」
一同が呆気にとられる中、風早だけが、まるで何もかもわかっていると言いたげに、彼に
しては驚くほど強い口調で青龍を挑発し始めた。その語気の鋭さに、いつもなら挑発する
方のサザキや、我関せずの那岐さえも止めに入ろうとしたほどだ。
だが、それでも青龍は姿を現さない。
風早はなおも挑発する。
「逃げ隠れせず、姿を見せるくらいの勇気を示してはいかがですか」
そこまで言って、それがようやくのとどめとなった。
「……!」
雷のような轟音と嵐のような風に一瞬皆が顔を背け、身をかばう。
がらんどうの気配が一変する。
「…青龍…」
つぶやいたのは誰だったか。
青く輝く神、東天を司る青龍はようやくに姿を現した。
彼は不機嫌だった。
龍の表情が忍人によめるわけではない。だが、どんなに鈍感な人間でも、彼が不機嫌であ
ることはわかっただろう。
「白き龍の傀儡。哀れな娘」
青龍は冷たく光る瞳でそう吐き捨てるように言った。
「お前に力を与えるつもりはない」
風早の挑発のせいで機嫌が悪いというわけではないらしい。
現に、千尋が謝って、話を聞いてほしいと訴えても彼の答えは一言、
「断る」
だけだ。
とりつくしまもないとはこのことだ。
そしてずばずばと千尋をあざける言葉を重ねた。
知らず、忍人は唇を噛みしめていた。
忍人自身、千尋のことをまだ完全に認めたわけではない。神子としての実力は、武人であ
る自分には計りかねるので、認めるとも認めないとも言わないが、少なくとも将として、
武人としては多分に力不足だ。努力していることは知っているし、足りない時間の中よく
やっているとは思うものの、志を立ててからの時間があまりにも短すぎ、心許ないところ
ばかりが目に付くのは事実だ。
だが、それは彼女の咎ではない。
幼い彼女が風早の手によって戦乱を逃れ、安全な地で成長することは必要なことだったと
思う。また、その安全な場所で戦いや戦術について学んでこなかったことについても、世
話係である風早が責められることこそあれ、姫が責められることではないと思う。
だが、青龍は頭から彼女の全てを否定する。
忍人の中の公正さ、正義感のようなものがむくむくと頭をもたげたとき。
風早が青龍の嘲りに真っ向から反論した。
「今会ったばかりで、どうして力があるかないかまでわかるんですか」
青龍はむっつりとひげを震わせる。
「…お前はこの娘に力を示させようというのか」
……というとつまり。
忍人と同じことに千尋も気付いたらしい。眉をひそめ、風早を止めに入ろうとした彼女を
逆にとどめるように、青龍はこう言った。
「どうした娘、臆したか。…この程度の臣下しかおらぬのではそれも道理」
……。
千尋の頬がぴくり、と震えた。
「みんな、武器ちゃんともってるね?」
忍人が今まで聞いたことのないような千尋の声だった。低く、押し殺したようで、隠しき
れない憤りがにじみ出ている。
「まさか、…君は」
思わず、少し慌てた声で止めに入ろうとしたのだが時既に遅く。
「力を示さなければ認められないなら、示してみせる!青龍、私たちが勝ったら話を聞い
てもらう、いいね!」
一瞬呆気にとられた忍人は、次に額を押さえた。
本気で神に戦いを挑む気か、彼女は。
だが、大きく一つ息を吐くと、忍人は額から手を離し、破魂刀をすらりと抜いた。
瞳の色を見ればわかる。彼女は本気だ。…ならば。
既に弓を引いている千尋の傍らへと一歩足を踏み出し、迷わずまっすぐに神に刀を向けた
とき、青龍がうっすらと笑った気がした。
「…よかろう。その力、見せてみよ」
「ああ……何でそう、けんかっぱやいんだ」
あきれかえった声でつぶやいたのは那岐だと気付いたときには、千尋の矢が青龍に向かっ
て飛んでいた。

青龍は強かった。
忍人は一瞬で目の前にいた敵をなぎ払い、千尋の元に駆けつけて神に向かって一太刀浴び
せた。普通の荒魂なら消し飛ぶことすらある忍人の破魂刀だが、青龍にはがつんという響
きと共に受け止められた感触があっただけだ。
だが、歯がたたないというほどではない。かすかながら手応えを感じる。それが逆に不思
議だった。相手は神だ。本当なら、触れることすら叶わず、はじきかえされるのが関の山
だと思う。
この青龍が偽の四神だとは思わない。…ということは。

…俺たちは手加減されている。試されているのだ。

忍人や千尋、風早、…仲間達一人一人の強さ…というよりも、もっと深い何かを、青龍は
探っている、忍人にはそんな気がした。
そもそも、自分にこういうことを考える余裕があること自体おかしい。……考えている場
合ではない。
もう一度、と青龍に斬りかかった。先ほどのようにただ太刀を浴びせるだけでなく、刀そ
のものの力を使う。
普通に斬りかかっただけではたやすく受け止められてしまった刀が、今度はその鱗を削り、
皮を切り裂き…。
「……っ?」
忍人は飛び退った。
手応えが、少しおかしい。
…否。
青龍の反応が、少しおかしい。
動きが一瞬止まる。
それは、通常であれば、己を傷つけられた衝撃や痛みに驚いて、あるいはこらえるために、
動きを止めたと考えるべきだろう。
だが、忍人にはそうは思えなかった。
どういえばいいのだろう。青龍が訝しんでいるような気がしたのだ。これはおかしい、ど
こか妙だ、こんなはずではない、と感じているような気がした。
己の刀の人ならぬ力に驚いたのだろうか。けれど、風早の剣だって、那岐の呪力だって、
ただひととはちがうはず。
青龍は破魂刀の何に驚いたのだろう。
奇妙な不安が、戦いの最中だというのに忍人の背を駆け上がっていく。
もう一度青龍に斬りかかる。
神は既に動揺を見せない。
だが、忍人は気付いた。
…神の、どこか老いた瞳の中に、哀れみが見える。
時の奔流に溺れ、流される力なき者と彼は言った。
だがそれは人々全てを指す言葉だったはずだ。しかし今の青龍の目は違う。彼の哀れみの
目は忍人ただ一人に向けられている。
……何故。
わからないまま忍人は刀を振るい続ける。
神は手加減したまま、少しずつ膝を屈していく。

千尋達は勝った。
青龍は話に応じた。
…けれど、応じただけだった。
「見事な武力だ。だがそれ以上ではない。お前に力を貸すことは出来ない」
ぽかんとする布都彦。約束が違うと憤る那岐。その那岐に、からかうように道理を説くサ
ザキ。説かれた那岐が八つ当たりのようにサザキにくってかかる。
足りないのか、とつぶやいたのは風早だったような気がする。
「青人草は木に咲く花より儚く消えゆく滅びのさだめ。陽光ばかりを求めるなら、夜闇の
中を歩めぬなら、お前にさだめは変えられぬ。我が力を求めるなら、天地を統べる才を示
せ。お前の真の力を示せ」
言うだけ言って、龍は姿を消してしまう。
消す前にちらりと一瞬、目が合った気がした。
けれどそれは錯覚かもしれない。
目が合ったときにかすかに「そうすれば…」と神がつぶやいた気がした。
けれどそれも空耳かもしれない。
ともかくも、神は消えてしまったのだ。指輪だけを姫の指に残して。

意気揚々と山を登ってきたのとは違う、やるせない下山となった。
救いはこれが下り坂だったことで、もしも上り坂だったとしたら那岐の不平はもっと多か
っただろう。
いつもなら同じように不満を漏らすはずの柊は、どこか薄ら笑いを浮かべたまま終始無言
だった。
彼と風早は、こうなることを知っていたのではないか。
だからこそ、青龍が消えた後、二人してこともなげに姫を慰めていたのではないか。
そんな気がした。
………。
「…難しい顔ですね、忍人さん」
思いがけず声をかけられて振り返ると、千尋がなんともいえない情けなさそうな顔をして
いた。
「…君も、あまり陽気な顔には見えないが」
応じると、みんなに無駄足踏ませちゃったみたいで、と力なく笑う。
「無駄ではないだろう。…少なくとも、青龍と話すことが出来たんだ」
「それはそうですけど…」
千尋はため息をついて空を見上げる。つられて忍人も空を見ると、木々の隙間から星がか
すかに見えた。
「…聞いてもいいですか?」
「…?」
無言で首をかしげ、次の言葉を促すと、千尋も首をかしげながら切り出した。
「最後に青龍が小さな声で付け足したこと、…忍人さんは聞こえました?」
「…」
ではあれは空耳ではなかったのだろうか。
「たしか、…そうすれば、と一言」
「…一言だけ?」
「俺に聞こえたのはそれだけだったが」
「…そうですか」
つぶやいて千尋は指の爪をかんだ。
「…爪をかむのは止めた方がいい」
止めると、我に返った顔で、ああ、はい、と小さくつぶやく。どこかぼうっとしている。
「君にはもっと何か聞こえたのか」
水を向けてみた。千尋ははっとした顔で忍人の顔を見上げ、まだ何か考え込む様子ながら、
ええ、とうなずいた。
「聞こえたんです。…そうすれば、お前の願いも叶うだろうって」

・・・お前の願いは 何だ。

「……」
ずきりとこめかみが痛む。忍人は顔をしかめた。だが今回はこらえる。千尋はまだなにか
言葉を続ける様子だ。
「それは、青龍の力を得られるということかもしれない。でもそれなら、わざわざ『そう
すれば』と付け加える必要はないんです。力を示せば力を与えると、青龍は先にそう言っ
ているんだから。だから、青龍が言っている叶うかもしれない望みって、何か別のことな
のかなって思って、気になって」
願いが叶うだろうと言われたのが自分なのか、それとも他のみんななのか。
「……なるほど」
皆に聞こえた言葉なら、叶うのは皆の共通の願いだ。だがもし千尋にだけ聞こえたのだと
したら。叶うのは千尋個人の願いということになる。
そういえば、今日は星の祭りだ。
「…君の世界では、笹に短冊をつるして、願いをかけるんだったな」
この世界の人間は、あの祭りで星に願いを託すことはしない。今日、星に何か願う人間が
いるとしたら、姫か那岐、風早くらいだろう。
「君は、星に何か願ったのか?」
千尋はちらりと忍人を見て、どこかさびしい顔で笑った。
「…一応」
「……では、その願いが叶うのかもしれないな」
「…だと、うれしいんですけど」
千尋は瞳を伏せて表情を隠し、口元だけで微笑む。どこかいたたまれない気分になって、
忍人はそっと、なだめるように彼女の背をとん、と一つたたいた。とたん、はじかれたよ
うに彼女が目を見開き、顔を上げる。その驚いた目に向かって、忍人は問うた。
「君は何を願った?」
ひょん、と一層瞳が丸くなる。それから千尋はふわりと笑って、…唇をとがらせながらこ
う言った。
「…秘密です」
頬が少し上気して、表情が明るくなる。ああ、いつもの彼女だとほっとして、どこか浮き
立つ己の心に忍人は苦笑する。
君はいつの間に、俺の心に根を下ろしたのか。
最初は、彼女の一挙手一投足を否定的にばかり見ていた。今は違う。彼女の行動、言葉一
つが、空虚な自分の心に火をともす。灯された火が少しずつ増えて、感情を殺して冷め切
っていた己の心を、じわりと暖かく、強くする。
千尋は忍人の一歩先を歩いていく。落ちていたはずの肩がぴんとして、足取りも少し元気
が出たようだ。
歩幅を調節して、彼女を追い抜かさないように歩きながら、忍人はかすかに微笑んでいた。

星が、輝いている。