蝉時雨 菩提樹寮の裏庭にも少し飽きた蓬生は、星奏学院の森の広場に遠征してみた。 暑さは変わらないが、草原が広い分、空気が冷やされて風が心地いい。 ぼんやりと寝転がり、扇子で首筋を扇いで涼んでいると、こちらに向かって近づいてくる 足音が聞こえてきた。 さくさくという乾いた音を聞くとはなしに耳で追う。 足音の主は何かを捜しているかのように時折立ち止まりながら歩いてくるようだった。空 荷ではなさそうだから、オーケストラ部の部員が楽器の練習場所を探しているのかもしれ ない。あまり下手な弾き手でなければいいが、できれば自分から遠いところを練習場所に 定めてくれないものか、と勝手なことを思っていると、残念なことに、足音はまさに蓬生 のいる木陰の前で止まった。 ただ、日陰にいる蓬生には気付いていないようだ。上ばかり見て、何を気にしているのか と思ったら、 「…蝉の声で人が殺せそうだな…」 つぶやいた声は大地だった。 ……おやおや。 土岐は肩をすくめる。 「…榊くんにしては、非科学的な発言やね」 何気ないつぶやきだったが、全く蓬生の存在に気付いていなかった大地は飛び上がった。 「……土岐…!…何してるんだ、そんなところで」 心なし責めるような口調なのは驚いたからだろう。蓬生は薄ら笑い、 「涼んでるだけや」 と応じて大地の顔をしかめさせた。 「こんなところで?…今日も朝から30度を超えているんだ。熱中症になるぞ」 「ほんま、立秋も過ぎたいうのにいつまでも暑いね。かなんわ」 「土岐」 危機感のなさに、大地が思わず声を鋭くする。 「怖い声やな。…大丈夫、ちゃんと水は飲んでるし直射日光浴びてるわけでもない。ここ は汗かくほどの気温でもないし」 何気なく付け加えた最後の一言に、大地は顔色を変えた。警戒した様子で距離を取ってい たのにつかつかと近寄ってきて、蓬生の上にかがみ込み、ごめんと一言つぶやいてその額 に手を当てる。 …熱い手だ。 その熱と、触れられたことの唐突さに、覚えず蓬生の顔が険しくなる。自分から、からか いがてら触れにいくのは好きだが、他人から触れられることは好きではない。 「ちょお、榊くん」 尖った声で呼びかけたが、大地は髪の生え際、耳の下からうなじ、とかまいもせずにふれ ていく。聞く耳持たないと言いたげなしかめっ面に、蓬生は抗議をあきらめた。元々、し つこく抵抗する体力もない。したいようにさせていると、熱い手はすぐに離れていった。 大地はしかめ面のまま自分の手を確認している。 ……にやけて笑ってるときより、機嫌悪そうなときの方が男前やな、榊くんは。 ぼんやりそんなことを考えると、触れられた手の熱さがふとよみがえった。不快だったは ずなのに、こうして思い返すとさほど厭でもなかったように思えるのが不思議だ。 「確かにほとんど汗をかいていないが、この気温で戸外にいて、汗をかかない方が身体に 悪い。…体温調節が出来なくなっているかもしれない」 熱中症かもしれないから、室内に入って塩分と水分を取って、と淡々と指示を出す姿はひ どく慣れた様子で。 蓬生は呆れた声で言った。 「…なんや、いっぱしの医者気取りやね」 何気ないからかいだったのだが、思いがけず、榊が他の何を言われたときよりもはっきり と痛そうな顔をしたので、あれ、と思う。……思って、止めようとしたのに、次の言葉は するりと蓬生の口から飛び出てしまった。 「俺、医者っていう人種は好きやないんよ、悪いけど」 「…奇遇だな」 応じる大地の声はかさかさとささくれている。 「俺も、自分の体をいたわらない奴は嫌いだよ」 忠告はした、と、冷ややかな声で言い放ち、大地はふいと顔を背けた。 「せいぜい、セミファイナル当日は体調万全で望んでくれ。…体調不良を負けた言い訳に されたくないからね」 尖った頬の線、目尻に残る険。何かをこらえるように足早に去っていく背中を、蓬生は瞳 をすがめて見送った。 ふてぶてしい遊び相手の思いがけない弱みを見つけたというのに、これで楽しもうと思う どころか、自分の胸がささくれたような厭な後味がじわりと押し寄せる。 大地の熱い掌が触れたうなじにそっと手を触れて、蓬生はゆるり吐息をもらした。 「…せっかくのご親切やから」 せめて中に入ろうかと、蓬生はゆるゆると立ち上がる。 立ち上がると蝉の声が一層に激しく耳に響いた。一夏の恋のために、鳴いて鳴いて、焦が れ死ぬかと思うほど鳴き狂う。 けれど。 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす、…て、な」 ……自分で思てるより、ぎりぎりのとこまで来てしもてるんかな、俺は。 後一歩自分から踏み出せば。きっと淵に落ちていく。……そんな気がする。 空より広く 海より深く その淵の名を 恋と言う。