背中は静かに

その日僕が部室に入っていくと、ざらざらと音を立てて、榊先輩が紙皿に何かを無造作に
ぶちまけているところだった。
「…何ですか、それは」
榊先輩は二つも年上でしかも部では副部長だが、実はうちの神社の氏子でご近所で、ほぼ
赤ん坊の頃からのつきあいの幼なじみだ。元々、先輩後輩関係なく気安い人でもある。僕
が少し離れて首をかしげていると、にこにこして来い来い、と手招いてきた。招かれるが
ままに近づいて手元をのぞき込むと、先輩が皿に盛り上げていたのはクッキーだった。
「調理実習の成果をもらったから、みんなに食べてもらおうと思ってね」
……調理実習って、一人あたりどれくらい分け前があるんだろう…?
「…一体、何人にもらったんです?」
頬が引きつるのを自覚しながら聞くと、
「…さあ、何人だったかな。二クラス合同授業だったんで、隣のクラスの子にももらった
し」
にやけた顔(僕にはそう見えた)で榊先輩はのんびり言う。
…僕の中で何かがぶちりとキレる音がした。
「…どうして先輩はそうなんですか!!」
「何が」
「女性に対して見境なく手を出すのはいいかげんにしてくださいっ!!ふしだらですはれ
んちです品性が疑われますっ!」
僕が本気で怒っているのに、榊先輩は、
「ひどいなあ」
穏やかに言って苦笑する。
「別に見境なく手を出しているつもりはないよ。…俺はただ、女性に対して紳士的な応対
を心がけているだけだ」
それに、彼女たちもたぶん俺に対して本気じゃないと思うよ。ただの親切さ。
「…っ」
その静かな返答に、血が上っていた頭が少し冷えた。
「…すいません。…言いすぎました」
「別に。ハルが俺のこういうところにかみつくのはいつものことだろう?…もっとも、子
供の頃からのつきあいなんだから、そろそろ慣れてくれてもいいんじゃないかと思うけど」
「慣れたくありません」
きっぱり言うと、ハルらしいなあ、と先輩はくすくす笑った。
僕はため息をついて、抱え込んだままだったチェロケースを下ろした。
「…先輩は」
「んー?」
再びクッキーを袋からぶちまける作業に戻った先輩が、こちらを見ずに声だけで反応する。
「誰か一人とつきあう気はないんですか。…特別な人とかいないんですか」
そういう人がいれば、榊先輩の回りで騒ぐ女性も減るだろうに。いないから、プレイボー
イだの見境ないだの言われるんだ。
榊先輩には、特別な恋人はいないから。
そう思って、言ったのに。
「いるよ。特別な相手」
あっさり言われて、
「はあ!?」
思わずまた叫ぶ。
「じゃあさっさとつきあえばいいじゃないですか!そうしたら…!」
「特別な相手はいるけど、つきあってください、はいわかりました、という間柄になれる
対象じゃない」
「…は?」
…どういう意味だろう。
数秒首をひねってから、僕はおずおずと聞いてみた。
「芸能人とか?」
そういう相手なら、いくら榊先輩が特別に好きでも、気安く告白したり付き合ったりは出
来ないだろう。…まあ、…榊先輩が本気を出せば、不可能ではない気もするけど。
僕の質問に、先輩は口元で笑ったまま肯定も否定もしない。
「…」
僕は知ってる。この人は、はぐらかしはするけど嘘はつかない。そういう人だ。
僕はまた、考え込む。先輩の回りにいる、先輩が特別大事にしてそうな…。
……馬鹿な考えが浮かんだ。
何を馬鹿なと自分をたしなめるより前に、思わず僕は口走っていた。
「…もしかして、モモですか?」
「……」
「……」
一瞬の、気まずい間。
その次の瞬間、榊先輩は弾かれたように笑い出した。
「も、モモ……!真顔でそれを言われるとは思わなかった。さすがハル…!」
「だ、だって、モモのことはすごく大事にしてるじゃないですか!人じゃないけど、女の
子だしっ…」
………。
…あれ?
上擦った声で叫んだ自分の言葉の何かが、僕の心に引っかかった。
……モモは、人じゃないけど女の子で、…榊先輩がとてもとても大事にしてる子だ。
でももう一つ、…いいや、もう一人、…榊先輩がとても大事にしている相手がいるんじゃ
ないか?
脳裏に浮かんだのは、信じられないくらい綺麗に整った白い横顔。
榊先輩の、特別。…人だけど、…女の子じゃない、……誰か。つきあってください、はい
わかりました、とはいえない対象。
「ハル?…なんだい、急に黙り込んで」
「……榊先輩。…もしかして、そういうことですか?」
「…モモ?」
目尻にまた笑いがにじんだ。先輩はこらえるように、口元を大きな手で覆う。
僕はどきどきした。口にしていいのかどうか迷う。
…でも、…聞かずにはいられなかった。
「そうじゃなくて。…榊先輩の特別な存在は、人だけど、…女の子じゃない、…とか」
冴え渡る月の光のように綺麗で、冬空にきらめく星のような音を出す人。
「…」
榊先輩は一瞬瞳をすがめ、…それから静かに、ゆっくりと、口の端をつり上げるようにし
て笑った。
「…さあ、どうでしょう?」
…嘘をつかない先輩の、それが、答え。
聞くべきではなかったことを聞いてしまったような後悔で胸が詰まり、僕はうつむく。
榊先輩はそんな僕をしばらくじっと見ていたが、
「ほら、ハル」
穏やかに笑いながら、口にクッキーをぽんと放り込んでくれた。
「みんな上手に作ってて、美味いよ。食べてごらん。どうせ今日も律の練習は厳しいだろ
うから、体力つけとけ」
言い置いて榊先輩は立ち上がる。
…扉の向こうに人の気配が増えてきたようだ。授業が終わって、順番にみんなが集まり始
めたんだろう。癖のある扉を開けて、音楽室に集まっている部員に声をかけながら先輩は
出て行った。
僕を振り返らないその背中が、僕を静かにはぐらかす。


……さあ、どうでしょう?